礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年6月25日
 
「感謝を忘れないために」
上半期を締めくくるに当たり
 
梅田 登志枝 牧師
 
ルカの福音書 17章11-19節
 
 
[中心聖句]
 
  16   イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
(ルカの福音書 17章16節)


 
聖書テキスト
 
 
11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
 
初めに
 
 
今朝は2017年の前半を締めくくる主の日です。後半へ踏み出す中間地点でもあります。この半年間、個人的に、あるいは家庭的に、また教会としても様々な出来事がありました。けれども、それらを通過して、今朝、まず、こうして自らがこの礼拝に席を占めていることを心から感謝したいと思います。

さて今日の説教題は「感謝を忘れないために」としました。これは特に神様への感謝と言う意味に限定します。私たちにはどんな感謝があるでしょうか。讃美歌にありますようにこの半年、どのような神様への感謝を数え上げることができるでしょうか。
 
聖書箇所の背景について
 
 
ルカの福音書17章11−19節は10人のツァラアトに苦しむ人々が、イエス様に癒された出来事が書かれています。イエス様がエルサレムに向かって旅しておられるときに、このツァラアトの病気を持つ人々が、イエス様と出会い、主に直してくださるよう頼んだというのです。イエス様はその願いを聞き入れます。「祭司のところに見せにいくように、つまり、もう癒してあげたから、祭司に治ったことを確認してもらいなさい」とおっしゃったのです。癒された10人の内、1人のサマリヤ人がいました。彼は、祭司に見てもらおうと、歩いているうちに自分が治ったことを知って、道を引き返してイエス様のところに戻り、足元にひれ伏して感謝をしたのでした。イエス様はそのサマリヤ人の信仰をとてもほめてくださったのです。他の9人は、どうしたのでしょう。戻ってきませんでした。

今日は、たった一人戻ってイエス様に感謝したサマリヤ人の姿から特に「感謝を忘れないために」いられるためには何が大切なのかを見てみたいと思います。大きく2つの事が言えます。
 
T.自分を知ること
 
 
まず、神様への感謝を忘れないためには、自分自身を知ることが大切です。「自分が一体どれほどのものであるか」を知っていること、わきまえていることが大切であると言えます。
 
A.病人であること(12節)
 
 
まず、この人は自分が病気をもっていること事、しかもその病気は、社会から排除されるほどの病気である事を自分で認めていました。ツァラアトとは以前は第2版の聖書ではライと訳されていた病気ですが、差別的な表現ではないかという理解に基づいて、聖書の訳も変えられました。言語のへブル語発音に近いツァラアトということばを使うようになったのです。

旧約聖書の時代、ツァラアトはとても恐れられていた病気で、この病気にかかった人々は、隔離されて一か所に集められるか、一人にされて生活していました。レビ記13,14章などを見ると、医学が今ほど整っていない時代、この病気は神殿に仕える祭司が、人がその病気にかかった時、あるいは直ったとき、それを診断することになっていました。

12節にあるように、こういう人々は健康な人々に近づいてはならないし、何メートル離れて口を覆いながら「汚れたものです」と叫びながら歩くなどの決まりもありました。ですからこの人々も10人のグループになって「私たちは汚れたものです」と叫びながら歩いていたのでしょう。するとイエス様を見つけたので、遠くからイエス様に助けを求めたとあります。自分から好んでこのような病気になる人はいないでしょう。なんという人権侵害、差別、侮辱でしょうか。この人々どんなに辛く、厳しい人生を歩んでいたことでしょうか。
 
B.サマリヤ人であること(16節)
 
 
次に、この人は自分がサマリヤ人であることを自覚していました。他の9人はイエス様と同じユダヤ人でした。サマリヤ地域に住むこのサマリヤ人と呼ばれる人々は、エルサレムへの対抗意識からサマリヤ教団を作り、次第にユダヤ人と仲が悪くなるという歴史の背景がある人々でした。ユダヤ人とサマリヤ人は互いに反目しあっていましたので、この人はサマリヤ人である自分が、ユダヤ人であるイエス様に声をかけても、相手にされないことだってあると良くわかっていたのです。

当時は人々の最も嫌がられる病気を抱え、しかも嫌われ者のサマリヤ人の自分であり、「この私がどうして神様の憐れみを受けられようか」と思っても、当然だったでしょう。けれどもイエス様はそんなサマリヤ人にも心を留めて、憐れみをかけ、病気を癒してくださったのです。イエス様は他の9人のユダヤ人とこのサマリヤ人に同じように接してくださり、癒してくださったのです。これほどの感謝があるでしょうか。

自分が恵みを受けても当然、哀れまれても当然と思っていると、それを感謝と感じないことがあります。でもこのサマリヤ人の感謝は特別、別格の感謝だったことがわかります。

ルカの福音書2章17節に「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とあります。けれども、サマリヤ人のように自分が病人であること、社会から拒絶されているような人間であることを、心底から認めてイエス様に叫んだ時、この人は癒されたのでした。

私たちが自分の醜い、あるいは汚れた姿を認めることができるのも神様の恵みです。そのためにも、みことばを通して神様が語られる「私のすがた」に自分を重ねる謙遜さが大切なのではないでしょうか。そして自分はイエス様の助けを必要としているということを知り認め続けることが必要なのではないでしょうか。
 
U.神様ご自身を喜ぶこと
 
 
第二は、神様ご自身を喜ぶことです。神様がくださる恵みや祝福を喜ぶ以上に、私たちが神様ご自身を喜ぶ、そのような信仰を持っていることが大切です。

この福音書を記録したルカは、当時ユダヤ教が信仰を利得と結びつけてこの世的になっていることを、このユダヤ人9人の姿に暗示していました。それに比べ、異教のサマリヤ人が新しい神の国の恵みに生きる姿を記録したのでした。

10人のツァラアトはみな同じように、イエス様に助けを求めそして癒されました。けれども、神様に感謝をささげるためにイエス様のもとに帰ってきたのはたった一人の、異教の、外国のサマリヤ人だけだったのです。

そしてイエス様はそのサマリヤ人の信仰をほめてこういわれます。19節 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」 9人とこのサマリヤ人の違いは何だったのでしょうか。全員、イエス様の癒しを信じる信仰はありました。けれども信仰にどんな違いがあるというのでしょうか。それは9人は癒されたことだけを感謝し、喜んだのです。結果だけを喜ぶ、欲しいものを手に入れたら、もうそれで十分ということは、信仰といっても「ご利益信仰」です。9人には癒し主である神様への思いや感謝がなかったのです。けれども、このサマリヤ人は違いました。この癒しの奇跡がイエス様を通して、神様がなしてくださったことを知り、その神様を讃え、賛美し、感謝をするために引き返してきたのです。

その姿が15節、16節に書かれています。「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」。

では神様ご自身を喜ぶ信仰はなぜ大切なのでしょうか。
 
A.まず、神ご自身を喜ぶ信仰生活が大切な最初の理由は、私たちが高慢の罪から守られるため
 
 
私たちはもともと罪深いものです。その罪の根源は「傲慢」という罪です。わたしの人生には神様などいらない、必要ないという、神様の前に謙遜になれない「傲慢」という罪の性質を持っているのです。罪を悔い改め、赦していただいてクリスチャンになっても、その傾向性があります。また、クリスチャンになり、その根深い罪に気づき、きよめの信仰に立っても、なおその傾向性は、しばしば弱さとして現れ、信仰生活の課題となることがあるのです。恵みや祝福があるとき、私たちは気を付けないと、口では「神様に感謝します」と言いながら、どこかで自分の努力や能力を讃え、傲慢な思いになってしまう危険があるのです。ですから私たちは心して、意識して、徹底的に神様の御業を讃え、神様にすべて恵みの源があることを感謝しなければならないでしょう。それは私たちを傲慢の罪から守るためであります。
 
B.神ご自身を喜ぶ信仰生活が大切な理由の2つ目は、力ある信仰生活を送るため
 
 
ネヘミヤ記8章10節にこのような言葉があります。「きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」。この訳は、3版の下のところに別訳として「主を喜ぶことはあなた方の力であるから」 となっている箇所です。

ここで語られているのは、私たちが神様に感謝し、神様を喜ぶことが、信仰のエネルギー、糧になるということです。環境や状況がどうであろうと、それらによっていちいち一喜一憂しない、ぶれない、揺れ動かない力ある信仰に育つためにも神様ご自身を喜ぶことを身につけたいものです。

サマリヤ人は、イエス様によって自分に起きた癒しをどんなに喜んだことでしょう。と同時に、その癒しの御業の源である神様を喜びほめたたえる事を決して忘れませんでした。神様ご自身を喜ぶのです。そうでないと、私たちは物事が順調であれば喜び感謝する、けれども試練がやってきたり、願った通りの結果がでないと、感謝もなくなり、力を失ってしまいます。これは神様を自分の人生のために利用しているだけの信仰、つまり「ご利益信仰」にしかすぎません。神様が私たちを用いてくださる事はあっても、私たちが自分の都合のために神様を利用するような事があってはならないのです。神様からの何かを感謝し喜ぶ事以上に、神様を喜ぶ信仰者にならせて頂きたいものです。

子どもも小さい時は、お父さんやお母さんがくれる食べ物や服やおもちゃを喜びます。しかし成長と共に与えてくれるもの以上に、それを下さるお父さんやお母さん自身を求め、愛し、感謝するようになっていくのが健全な成長と言えるでしょう。もちろん恵みと祝福の一つ一つを数えることは、与え主の神様を思うためにはとても大切です。けれどもいつまでも幼い子供のように、神様が下さるものばかりを求め、感謝し喜んでいるだけの幼いクリスチャンであってはならないでしょう。私たちは信仰者として霊的な大人へと成長したいものです。
 
終わりに
 
 
私たちの信仰は、何を求め、何を感謝し、何を喜ぶ信仰でしょうか。まず、神様が私のようなものを神の子どもとしてくださり、赦し受け入れてくださっていること、これに勝る感謝はありません。そんな神様ご自身を愛し、喜ぶ事が、実は何よりも大切な信仰生活の原動力です。

そして、その神様との豊かな信頼関係があるとき、私たちの状態がどうであれ、環境がどうであれ、神様に何時でも感謝ができるのではないでしょうか。

今日は一人のサマリヤ人から「神様への感謝を忘れないために」という内容でお話を致しました。自分をわきまえ、主ご自身を喜びながら、新しい週を迎え、この年の後半に踏み入らせていただこうではありませんか。
 
お祈りを致します。