礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年9月3日
 
「ここに愛がある」
ヨハネの手紙からのメッセージ(12)
 
梅田 昇 牧師
 
ヨハネの手紙第一 4章7-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(ヨハネの手紙第一 4章10節)


 
聖書テキスト
 
 
7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
礼拝を守れる感謝
 
 
礼拝の自由を与えられ、今日も神様を心から礼拝し、大きな声で神様を賛美できることは感謝なことです。あるイスラムの国での礼拝について聞いたことがあります。キリスト教の礼拝は公には認められていないので、目立たないようにクリスチャンたちが時間をずらして、集会所に集まるのです。賛美歌も大きな声で歌うことができません。静かに賛美を歌い、終わったら、目立たないように一人一人と静かに家に戻って行くのだそうです。私たちは大きな声を賛美歌を歌い、神様を自由に礼拝できることは素晴らしいことです。
 
今朝のテーマ
 
 
今朝の説教題を10節から「ここに愛がある」とさせて頂きました。大衆伝道者の故本田弘慈先生の生涯が映画化されて、その映画のタイトルが「ここに愛がある」であったと記憶しています。本田弘慈先生は、福井の料亭の息子として、育たれ、信仰に立たれ、献身して日本の伝道のために心血を注いで奉仕に励まれました。若い頃、本田先生のお話を聞いたことがありますが、大変ユーモアに富んだ、エネギルシュなすばらしい先生でした。まさに、本田弘慈先生は神の愛に燃やされ、その生涯を燃焼し尽くされたと言えましょう。今朝は、ヨハネヘの手紙の12回目の説教です。読ませて頂いた箇所は、ヨハネの手紙の中で、最も大切な箇所であると考える人もあります。ここに、神様の偉大な愛について記されています。もう一度、念を押すかのように、使徒ヨハネは神様の無限の愛について述べているのです。
 
I.愛の勧告
 
 
第一に、ヨハネは、愛を実践するように勧告しています。
 
A.ヨハネの勧告
 
 
7節「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」。「愛する者たち」とは、特に神の愛によって、生まれ変わった信仰者を意味していると言えましょう。「私たちは、互いに愛し合いましょう」とヨハネは信仰者に勧告しています。

愛ということばが、世の中に氾濫していますが、愛が失われつつある時代です。家庭は、「愛の学校」と言われ、人間は家庭の中で愛されることを知り、愛することを学んでいくのです。しかし、DVやネグレクトのように家族機能不全の家庭が多いという現状があります。私たち信仰者は、厳しい時代の中で、身近な家庭において、愛を実践して行くことを期待されています。愛とは相手の幸福のためにベストを尽くすことであり、喜んで相手のために犠牲を払うことです。愛とは、相手の価値に関係なく注がれますし、本当の愛は変わることがありません。
 
B.愛することの難しさ
 
 
愛することが難しいのは、なぜでしょうか。それは人間は本来自己愛が強いからです。自己愛が強いので、人を愛することが難しいのではないでしょうか? 私たちは人から褒められるとうれしくなります。反対に、注意されたり、非難されると不快になり、怒りを覚えたり、落ち込む場合もありましょう。自分の子どもの成績が40点の結果ですと、「うちの子は、本当はもっと実力があるのに、何と残念だ」というでしょう。よその子どもが同じ点数ですと、「あれが実力ですよ。」と思うでしょう。中には、口にしなくても「ざま見ろ」と思う人もあるかもしれません。罪の性質を持って生まれた人間には、自己愛が本来強いのです。つまり、人間は自分勝手、自己中なのです。

聖書に放蕩息子の物語があります。この息子は、父親の気持を考えることができませんでした。また、兄や他の人を思いやることもできません。ただ、自分が楽しむことしか考えられなかったのです。放蕩息子に自己中の姿が見えます。自己愛の強さが、周りの人を愛することを妨げるのです。
 
C.主キリストの勧告
 
 
主キリストが十字架にかかられる前にも互いに愛するように弟子たちに教えられたのです。ヨハネの福音書15章12節「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです」。ヨハネは主キリストのそば近くにいた弟子で、弟子の中でも主に愛された弟子の一人でした。ヨハネの福音書13章にあるように、主キリストが弟子たちの足を洗われた姿を思い起こすことができます。乾燥したパレスチナを旅すると、埃で足がとても汚れます。当時、足を洗う仕事は奴隷の仕事でした。主キリストは、人々のしもべとなって、弟子たちの足を喜んで洗われたのです。「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と主キリストは弟子たちに命じられたのです。
 
U.神の愛の提示
 
 
第二に、神様の愛が私たちに明らかにされた事実に心を向けさせていただきましょう。
 
A.神は愛
 
 
8節に「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」とあります。愛のない者に神はわからないと記されています。愛のある人には神様のことがわかるのです。なぜなら、神は愛だからです。『神は愛です』という表現は、聖書に2回だけ出てきます。それは、この章の8節と16節です。神様のご性質を一言で表現しますと、神様は愛のお方です。聖書を読むと、神様は様々なご性質をもっておられることがわかります。きよさ、正しさ、善、忠実さ、憐れみ、同情、普遍性、永遠性、全能、全知。聖書に基いて、神様の様々なご性質について理解を深めることができます。その神様のさまざまなご性質の中で、一番中心的な性質は愛です。

ある人は、ある宗教団体に属しておられて、神様は厳しいお方であると教えられていたのです。ところが、キリスト教会に出席され、神様は愛のお方であると教えられて、ビックリされたそうです。ヨハネの福音書3章16節『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』というみことばに触れて、心の目が開かれ、後にクリスチャンとなられたそうです。

聖書全巻が、神様は愛のお方であると宣言しています。愛の神様は、私たちを守り、支え、導きなさるお方であり、慰め、励ましてくださるお方です。もちろん、時として、神様は厳しく懲らしめなさることもあります。イスラエルの民が、不信仰と偶像礼拝の故に、バビロンに滅ぼされるということもありました。「愛の鞭」という言葉がありますが、裁きさえも、愛から生まれるのです。エレミヤ31章3節には「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」ということばがあります。神様は変わることのない愛をもって私たちを愛し続けてくださるお方です。
 
B.神の愛の表れ
 
 
神様が愛であるといっても、目に見えるわけではありません。私たちは、どのようにして、神の愛を知ることができるのでしょうか。9節にその答えがあります。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」。神様の愛は、主キリストの生涯を通して現わされたのです。主キリストは、神のご計画の故に、ベツレヘムに誕生され、33年の生涯をたどられ、最後には、十字架にかけられました。

子どもが苦しんでいることを見ることは親にとってとても辛いことです。自分の子どもが高熱で苦しんでいる時、何とかしてあげたい、できることなら代わってあげたいと思うのが親心でしょう。愛の神様は、人間が罪の泥沼で苦しんでいるのをご覧になり、救いの手を差し伸ばすために、主キリストを遣わされたのです。愛の神様はキリストの生涯、十字架の死を通して、いのちを与えてくださったのです。

主キリストを信じますときに、霊的ないのちが与えられ、人生の新しい動力が与えられます。私たちの人生は、何を動力にして動いているでしょうか。同じ船でも、異なる燃料を使います。ガソリンや重油を燃料にしますと、航海ごとに港に戻り、燃料の補給をしなければならないでしょう。原子力船ですと、何千キロも燃料を補給することなく、航海を続けられるでしょう。私たちの人生の動力は、自己愛でしょうか。それとも神様の愛でしょうか。主キリストを信頼し、神様の愛を動力とした人生をたどることは幸いです。

10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。神様が、まず私たちを愛してくださったと記されています。神様が主導権を握ってくださったのです。

今年は雨の多い不順な夏でしたが、海水浴場での事故がありました。水を飲んだりして、おぼけかけますと本当に危険です。溺れた人が助かるには、救いの手が差し伸べられる必要があります。罪の泥沼の中で、もがきながら、おぼれているような状態でありました私たちに、神様は主キリストを通して、救いの手を差し伸べてくださったのです。

神様の愛を経験しますと、周りの人を思いやり、愛することができるように変えられるのです。「ここに愛があるのです」と10節の最後の所に記されています。こことはどこでしょうか。10節を見ると、「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」とありますが、キリストが宥めの供え物となられたことの中に、愛が現わされたのです。宥めの供え物とは、神学的なことばで、宥めとは、怒りを和らげるとか、犯罪のための償いをすることが意味されています。

たとえば、サッカーボールで遊んでいて、隣の家に飛んでいき、花壇の花を台無しにしてしまったとしましょう。隣の旦那さんがカンカンに怒っています。花が壊れたことは変えられませんが、旦那さんの怒りを和らげるために、お菓子をもって「申し訳ありません。以後気をつけます」とお詫びするようなことがあるかもしれません。これが、宥めの供え物の意味です。

キリストが十字架にかかり、父なる神の怒りを和らげて下さるのです。つまり、主キリストは、なだめの供え物として十字架で新dネ下さり、私たちの罪を赦し、神様と和解をさせてくださるのです。神様の愛が、キリストの死と犠牲によって明らかにされたのです。キリストを信じて、神様のすばらしい愛を経験させていただいた私たちは、自分の心を指差しながら、「ここに愛がある」ということができるのです。
 
終わりに(結論)
 
 
人生のさまざまな経験を重ね、円熟したヨハネは、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」と勧告しました。「互いに愛し合いましょう」とありますように、愛は、身近なところから実践されるのです。一方的でない、思いやりのある家庭生活をたどりたいものです。ありのままの夫を、ありのままの妻を、ありのままの子供を、ありのままの親を受け入れ、互いに愛するものであらせて頂きましょう。信仰者でも性格やタイプが同じではありません。同じ教会員でもいろんなタイプの方があるのです。気があわない方があるかもしれません。だからと言って、退けるのでなく、違いを認め、互いを受け入れることを愛というのです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」とありますように、身近な場所で、愛を実践し、互いのために、祈り建て上げ合う信仰者であらせて頂こうではありませんか。
 
お祈りを致します。