礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年10月8日
 
「祈りの特権」
ヨハネの手紙からのメッセージ(15)
 
梅田 昇 牧師
 
ヨハネの手紙第一 5章13-15節
 
 
[中心聖句]
 
  14   何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
(ヨハネの手紙第一 5章14節)


 
聖書テキスト
 
 
13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
 
先週を振り返って
 
 
一週間の旅路を守られ、今日も主を礼拝して、新しい週をスタートできることを感謝しています。国際情勢では、北朝鮮問題が緊迫した状態が続いており、米朝間の軍事的な衝突も懸念されています。戦争にならないように、関係諸国の努力を期待しています。国内では衆議院が解散され、10日公示、22日投開票の衆院選の予定で、すでに選挙戦に突入し、各党間、候補者たちの間では激しい戦いが始まっています。今月には、新しい内閣が発足しますが、為政者が正しく国政を導くことができるように祈り、選挙に参加するとともに、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方を見上げていくことが大切でありましょう。
 
今朝の聖書箇所について
 
 
今朝は、ヨハネの手紙からの説教で、15回目です。ヨハネの手紙は、愛の手紙と言われるほど、神様の愛、アガペーに関する言及が大変多いことです。主キリストを通して現わされた神様の愛を教えられた信仰者が愛をもって生活を送るように勧告がなされています。今朝読んで頂きました13節から21節にかけては、ヨハネの手紙の結論的な部分です。今朝は13〜15節を中心に「祈りの特権」という題で、神様のことばを語ります。
 
I.本書の執筆目的
 
 
まず第一に、本書の目的について、学ぶことにしましょう。

私たちは、ヨハネの手紙を5月から学んできました。最近は、携帯電話や電子メールが普及し、手紙を書く機会が以前に比べて、だいぶ少なくなりました。手紙を書く時には、それなりの理由があります。お歳暮のお礼とか、病気のお見舞いとか、それなりの理由があるでしょう。昔、宣教地におりました頃、メールも携帯電話もスカイプもありませんでしたので、日本の教会から頂く手紙には、大きな励ましを受けたことです。
 
A.ヨハネの手紙の執筆目的:
 
 
13節には、この手紙の執筆理由が記されています。13節「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」。信仰者には、主キリストの名を信じて永遠のいのちを与えられているのですが、そのことをよく理解してほしいとヨハネは、願っていたのです。持っていることと、理解していることは別の問題です。「猫に小判」「豚に真珠」「宝の持ち腐れ」というようなことわざがありますが、猫が金の小判を持っていても、その価値、使い道を知りません。ですから、猫が金の小判を持っていても、意味や価値がありません。永遠のいのちを持っていることの意味を十分に理解してほしいとヨハネは願ってこの手紙を書いたのです。つまり、ヨハネは、この手紙を信仰者の教育的、啓蒙的な目的で書いたと言えましょう。

私たち信仰者には「永遠のいのち」が与えられていますが、永遠のいのちとは何でしょうか。そのことを理解してもらうために、ヨハネは、この手紙を書いたのです。永遠のいのちとは、聖書の中で理解することが難しいことばの一つではないかと思います。
 
B.ヨハネの福音書の目的:
 
 
一箇所み言葉をご一緒にお開きします。ヨハネの福音書20章31節「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。このことばは、ヨハネの福音書が記された理由です。福音書を読んだ人々がイエスの御名を信じて、永遠のいのちを持つようにとヨハネは、この福音書を書いたのです。つまり、ヨハネの福音書には、「多くの人にキリストを信じて、永遠のいのちをもってほしい」という伝道的な目的があったと言えましょう。

ある時、金持ちの青年が「尊い先生、永遠の命を自分のものとして、受けるためには何をしなければならないのでしょうか」(マルコ10・17)と主キリストに質問したのです。主キリストは、じっと青年の目を見つめ、「あなたの財産を売り払い、貧しい人に与えなさい」と言われたのです。青年は、悲しそうな顔をして、その場から立ち去ったというのです。何か慈善活動をするとか、修行をするとかではなくして、主キリストを信じ受け入れることで、永遠のいのちが与えられ、神様との交わりが回復することをヨハネは、力強く宣言しているのです。
 
C.永遠のいのちとは:
 
 
「永遠のいのち」とは、何でしょうか。。永遠のいのちとは、肉体が永遠に生きることではありません。先週の祈祷会で、モーセについてお話ししましたが、モーセは120歳の生涯をたどりました。私たちの肉体は、個人差はありますが段々と弱くなり、病気になり、やがてくち果てるのは、人生の現実です。医学の進展と共に優れた医薬品が開発されていることですが、不老長寿の薬は、ありません。永遠の命は、肉体のことではありません。

永遠のいのちとは、私たちの霊が、主とともに永遠に生きるのです。罪と罪過によって、霊的に死んでいて、神様との交わりが断絶していた私たち。主キリストの十字架の贖いを通して、過去の罪が赦され、霊的に生まれ変わり、神様の子供とされ、神様と交わることのできる者と変えられたのです。永遠のいのちとは、神様のいのちです。死んだ後で与えられるものでもありません。永遠のいのちは、現在信仰者に与えられているのです。

ヨハネは、福音書を書いてから、大体30〜40年後の後にヨハネの手紙を書いたと考えられますが、信仰者が永遠のいのちを持っていることを正しく理解して、信仰の勝利をあかし続ける様に励ましているのです。
 
U.祈りの特権
 
 
第二、祈りの特権について学ばせていただきましょう。5章14節「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」
 
A.神の子とされている事実:
 
 
私たちは、かって罪人の頭であり、神様の裁きを受けるべき怒りの子でした。そのような私たちが、主キリストを信じ受け入れることで、神様の子供とされているのです。子供の特権は、親に自由に願い事ができることです。

神様の子どもとされている信仰者は、何でも神様に願い、祈ることができるのです。クリスチャンは神様の恵みに大胆に近づいて、祈ることができるのです。先月の祈り会で、へブル10章から、祈りについて学ばせて頂きました。罪深い人間は、聖なる神様に近づくことができないのですが、神様は、近づく方法を備えてくださいました。それは、レビ記に記されているいけにえを捧げることを通してです。神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、私たちが神様に自由に、大胆に近づくことができるようにしてくださったのです。祈りは、信仰者に与えられたすばらしい特権です。

主キリストは弟子たちに「主の祈り」を教えられました。私たちは神の御国のために、みこころのために祈ります。それとともに、私たちは自分の必要や課題のために祈ることができます。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(マタイ6:11)とありますが、私たちは、食べ物だけでなく、すべての経済的な、霊的な必要のために祈ることができます。私たちの神様は父なる神様ですから、神の子供に対して、責任があります。
 
B.なんでも祈れる特権:
 
 
私たちは、もちろん悪事のために祈ることはできませんが、私たちの課題、重荷、どんな事でも祈り、ゆだねることができるのです。

使徒パウロは、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4章6〜7節)と勧告しています。
 
C.どこでも祈れる特権:
 
 
いつでもどこでも、話せる携帯電話は、大変便利です。自転車に乗りながら、携帯電話で話しておられる方も多いでし、歩きスマホの方が大変多いです。一寸昔には、携帯電話など全く考えられませんでした。線が繋がっていないのに、話ができるというのは、不思議です。しかし、携帯電話は万能ではありません。バッテリーが切れたり、相手が電源を切っていたのでは、通話ができません。電車の中ではマナーモードにしなけれならないというような不便なこともあります。携帯電話は便利ですけど、悪用される場合もあります。しかし、神様との交わりは、どこでも可能なのです。

テモテへの手紙第一2章8節「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」。これは男性に対する勧告ですが、どこでも祈れることには、男性も女性も関係ありません。満員電車の中でも、台所でも、ベットでも、お手洗いでも、どこでも祈れるのです。 

17世紀の英国の聖書注解者であったマシュー・ヘンリーという人は「祈りと涙は、教会の武器である」と述べました。祈りこそ、信仰者にとっての霊的な武器であり、エネルギーです。お祈りは、信仰者に与えられたすばらしい特権であることを覚え、課題の一つ一つを祈り、委ねつつ歩ませていただきましょう。
 
V.聞かれる祈り
 
 
第三に、聞かれる祈りについて、考えさせていただきましょう。5章14節「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。祈りは信仰者に与えられたすばらしい特権ですが、すべての祈りや願いが答えられるわけではありません。答えられる祈りと答えられない祈りがあります。
 
A.答えられる祈り:
 
 
14節によりますと、神のみ心にかなった祈りは、答えられます。私たちには、いろいろな願い、願望があります。願望、願いがあることはすばらしいことですが、それが神様に喜ばれ、受け入れられるかは吟味する必要があります。

主イエス様は、十字架を前にして、ゲッセマネでお祈りをされました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」。できることならば、十字架の苦しみ、死をさけたいという願いがあったのですが、主は、みこころにご自身を委ねられたのです。そして、十字架にかけられたのです。

このゲッセマネの祈りは、祈りの真髄であると言えましょう。自分のわがままを実現するためではなく、神のみ心の実現のために祈るのです。

世の中には、家内安全、無病息災、商売繁盛などを約束するご利益宗教があります。神社のサイトをみましたら、「一口にお願いごとと言っても、得手、不得手の分野があります。定番は、家内安全、無病息災、商売繁盛ですが、最近は、ストーカーや不倫の解消に効果のある神社もあるのだそうです」。神社の神様には、得意、不得意があるそうですが、一寸笑ってしまいます。神様を信頼する者に結果として祝福が与えられますが、信仰は必ず商売繁盛や健康を約束するものではありません。

答えられる祈りは、神のみこころにかなった祈りです。私たちは、どのようにして、神のみこころを知ることができるのでしょうか。神様のみこころを知ることは簡単ではありません。神様のみこころは、総合的に知る必要があります。@みことばの約束、A家族や先輩や牧者の助言、B摂理的な環境。学校を選ぶ時、結婚に導かれる時、仕事を選ぶ時、新しい計画を立てる時、人生の岐路に立ったときに、神様のみこころを求め、みこころにかなった祈りをすることが大切です。

神様のみこころにかなった祈りをなす時に、必ず祈りは聞かれます。もちろん、神様の祈りの答えは、ワン・パターンでありません。神様は、奇跡的な方法で祈りに答えなさることもあります。神様の祈りの答えは、時には、自分の願いとは異なる形で与えられる場合もあります。いずれにせよ、みこころにかなった祈りは必ず答えられます。

15節「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」。神様のみこころを求めながら、主の栄光のために、信頼を持って祈りましょう。
 
B.答えられない祈り:
 
 
聖書は、すべての願いや祈りが答えられると教えておりません。私たちの願いが答えられないように見える祈りもあるのです。つまり、神のみこころにかなわない祈りは、答えられないのです。

親は、子どものすべての願いを受け入れるわけではありません。あまりに身勝手な願いであれば、親はその要求を退けることでしょう。デパートのおもちゃ売り場で小さなお子さんが駄々をこねて、床に寝そべって泣いている光景を見かけます。家に同じおもちゃがあるのに、「このおもちゃが欲しい」と駄々をこねたら、我慢するように話すでしょう。「こんなところで、ねそべって、笑われるでしょう。しょうがないわね」と言って、こどものわがままに負けてしまってはいけません。譲ってしまうくらいならば、最初から買ってあげればよいのです。神様は、みこころにかなわない祈りに答えなさらないのです。

@不義の心:詩篇66篇18節には「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」と記されています。嫌いな人が穴に落ちてけがをするうように祈っても、神様はそんな祈りに答えなさいません。まず、憎しみ、妬み、許せない心、悪意を取り除いていただきように祈ることが先決でしょう。

A悪い動機:ヤコブの手紙4章3節には「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。
私たちの前任地では2009年に会堂建設を行ないました。会堂建設は、規模の小さな教会にも、大きな教会にとりましても、大きな戦いです。土地が与えられるように、経済の必要が満たされるように、よき設計者、施工業者が備えられるように祈りつつ会堂建設に当たります。会堂建設の動機は、牧師が評価されるとか、教会が地域に認められるかではなくして、あくまでも、神様の働きがこの地に前進していくようにということです。残念ながら、人間的な願いや野心で会堂建設に当たると、大きな困難に直面することがあります。 不純な動機で願っても祈りは答えられないのです。

B不忍耐の祈り:祈りは、すぐに聞かれる場合もありますし、時間がかかることもあります。へブル人の手紙10章35〜36節には、次のように記されています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」。マタイの福音書18章1節において、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、主キリストは、彼らにたとえを話されたのです。失望する現状は、いろいろとあるかもしれません。また、失望しやすい私たちであることも知れません。しかし、忍耐をもって祈り続けることが大切です。
 
終わりに(結論)
 
 
今朝は、「祈りの特権」についてみことばを語りました。

1.祈りは、信仰者に与えられた素晴らしい特権です。特権を感謝し、活用しましょう。

2.神のみこころにかなった祈りは、答えられます。この朝は、特に神のみこころにかなった祈りが聞かれることを学ばせていただきました。さまざなな課題がありますが、恵み深い神様にお祈りをしながら、生活を送れることは何と幸いなこことでしょうか。また、神様にお祈りできる立場と関係に置かれていることはすばらしいことです。

3.祈れる幸い、特権を感謝し、祈りを実践しつつ、日々を歩ませていただきましょう。

お祈りを致します。