礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年10月29日
 
「信仰による義認の意義」
宗教改革500周年記念日を迎えて
 
梅田 昇 牧師
 
ローマ人への手紙 1章13-17節
 
 
[中心聖句]
 
  17   なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
(ローマ人への手紙 1章17節)


 
聖書テキスト
 
 
13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
宗教改革記念日を迎えて
 
 
今月も守られて、10月の最後の礼拝となりました。多くのプロテスタント教会では、10月の最後の聖日に宗教改革を記念した礼拝を守ります。特に今年は、宗教改革500周年ということで、世界の各地で記念行事が行われたことです。

キリスト教会には、大きく言って、三つの流れがあります。ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会、プロテスタント教会です。プロテスタント教会には、ルーテル教会、バプテスト教会や、改革派教会、福音自由教会、長老教会、同盟教団、ペンテコステ派の教会、インマヌエル教会などのホーリネス系の教会がプロテスタント教会に属していることはご存知だと思います。インマヌエル教会に属するある方が、「私はカトリックではない、プロテスタントでもない。私はインマヌエルだ」とおっしゃったそうです。インマヌエル教会は、プロテスタントの伝統を受け継ぐ正統的なキリスト教会の一つだということができます。

プロテスタント運動は、16世紀のマルチン・ルターの宗教改革に由来いたします。ルターは、ローマ・カトリックの司祭であり、神学者でした。ところが、当時のカトリック教会において、聖職売買、聖職者の性的な不道徳や非聖書的な実践が行われていました。当時、聖ペテロ大聖堂の改築工事のために、資金が必要となり、免罪符が売り出されていたのです。この免罪符を買うと、罪が赦されて、天国行きが保証されるというものでした。

新設されたウィテンベルグ大学で神学を教えていたマルチン・ルターは、ハバクク書やローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙を読み、「信仰によって義とされる」事を再発見し、1517年10月31日に、ウィテンベルグ大学の教会のドアに、有名な95か条の提題を張り出したのです。丁度500年前の10月31日のことです。

ルターには、教会を分裂させようとする意図はなく、愛するカトリック教会を改革しようとしたのです。しかし、カトリック教会は、ルターの教えを拒絶し、迫害し、1520年にルターと彼の支持者を破門としました。
 
宗教改革の遺産
 
 
その後、ルターを支持する人たちによって、ルーテル教会が作られ、宗教改革運動は、ヨーロッパの各地へ、世界へと広がって行ったのです。今日、多くのプロテスタント教会がありますが、大きく三つの霊的遺産を受け継いでおります。

A.信仰による義認(Justification by faith):特に当時カトリック教会ではよい行いをすることで救われるという教えがあり、免罪符を買うこともよい行いと考えられたのです。免罪符を買うという良い行いを通して、罪が赦されて、天国に行けるという非聖書的な実践にルターは強く反対したのです。私たちは、行いや儀式ではなく、キリストに対する信仰によって、神様の前に義とされるのです。

B.聖書の至上性(Supremacy of the Bible):中世のカトリック教会には、絶対的な権威があり、教会会議の決定は、神の意思であり、絶対だと理解されていました。しかし、よく考えますと、教会は信仰者によって構成されるわけですから、教会は絶対的でなく、時には誤りに陥ることもあります。教会は、時代ともに変化していきますが、神のことばである聖書は、時代が変わっても変化することはありません。教会や教会伝統にまさって、聖書こそが信仰と生活の最高の権威なのです。ですから、プロテスタント教会では、礼拝の中心に、聖書説教を置いているのです。人々が自分で聖書を読む必要性を覚えて、ルター自身、聖書をドイツ語に翻訳し、出版したのです。

C.万民祭司制(Universal priesthood of believers):旧約聖書の時代、聖なる神様と罪深い人の仲保者として、祭司が立てられ、祭司はいえにえを捧げて、人々のためにとりなしをしたのです。新約時代は、主キリストご自身が大祭司として、神様と人との仲保者になってくださり、動物ではなく、ご自身のいのちをいけにえとしてささげてくださったのです。だれでも、主キリストの名によって神様に祈ることができ、近づくことができるのです。私たちは、神父や牧師に告白しなくても、主キリストの御名によって、誰でも直接神様にお祈りできるのです。これを万人祭司制と言います。

これらの3つは、プロテスタント教会の共通的な教えであり、霊的な遺産です。この朝は、インマヌエル教団に属する私たちは、宗教改革運動のすばらしい霊的遺産を受け継いることを覚えつつ、共に礼拝を守らせていただきましょう。今朝は、説教の後で、主キリストの苦しみと死の事実を覚えつつ、共に聖餐式を守らせて頂きます。、
 
ローマ人への手紙について
 
 
今朝は、ローマ人への手紙1章13―17節からみことばを開かせて頂きました。ローマ人への手紙は、使徒パウロがまだ訪問したことのないローマのクリスチャンに書き送った手紙です。この手紙はパウロの第三次宣教旅行の終わり頃、つまり紀元56年頃、コリントで記されたと考えられます。彼は、ローマ、スペインへの伝道旅行を計画していましたが、エルサレムのために集められた献金のために、パウロのローマ行きは実現しなかったのです。

彼は、訪問する代わりに、手紙を書くことで、ローマの信仰者を励まし、建て上げたいと願いつつ、この手紙を書きました。ローマは、ローマ帝国の都であり、国際的な都市であり、ユダヤ人と異邦人から教会は構成されていたようです。ローマの教会は、まだ十分に組織されておらず、ローマ市内に信仰者が点在し、家庭集会のような形で信仰が保たれていたのではないかと推測されます。パウロは、真実に歩んでいる人々を励まし、慰めたいと考え。彼らの信仰を確立するために、パウロはこの手紙を書いたのです。この手紙は、パウロの手紙の中で、最も神学的なものです。罪、信仰による義認、聖化、選びの教理を始め、福音の基本的教理につて記されています。同時に、12章以降には、信仰の実践的な勧告がなされています。

今朝は、宗教改革運動の霊的遺産の一つである「信仰による義認の意義」について、みことばをお分かちしたいと願っています。信仰者にとって、信仰によって義とされるとは一体どのような意義があるのでしょうか?
 
I.神の義の啓示
 
 
第一は、神の義が啓示された事実についてです。

1章17節には「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と記されています。
 
A.神の義の啓示
 
 
このローマ人への手紙に、福音の神髄が記されています。一体、福音とは何でしょうか。17節には「福音のうちに、神の義が啓示されている」と記されています。神様は義なる、正しい絶対者です。神様には罪や汚れは一つもありません。

@ノアの時代:ノアの時代に、人々は次第に神様を畏れないようになり、やることなすが悪に満ち、その暴虐と不道徳が最高になりました。「ノア:約束の舟」という映画が2013年に公開されてご覧になった方も多いことでしょう。映画ではまさに船というよりも箱の形をしたものでした。映画の製作者たちは、聖書の寸法にできるだけ忠実に従って制作したそうですが、洪水の中を漂う運ぶ箱舟の映像が印象に残っています。義なる神様は、ノアと家族7人以外の不敬虔な人々は、洪水によって滅ぼされたのです。ある意味で神様はとても厳しいお方、義なるお方です。

Aロトの時代:ロトの時代に、ソドムとゴモラの町は、不道徳に陥り、神様の怒りを受けるべき状態になりました。神様は、義人ロトを除いて、硫黄の火によって町を滅ぼされたのです。ロトの妻は、町から逃げる途中で、町を振り返ったために塩の柱になったのです。ソドムとゴモラの町の人々は、不道徳と悪のために滅ぼされてしまうのです。

Bエルサレム滅亡の時代:先週の礼拝で、エレミヤ書18章から、「あなたがたは神の御手の中に」という題で、みことばが語られました。イスラエル民族を御手の中に支配しておられた神様は、私たち一人一人をも御手の中に導いておられるのです。

エレミヤという預言者は、イスラエルの国が、偶像礼拝と不道徳のために、神様の裁きを受けて、国が滅び、エルサレムが陥落し、多くの有能な知識人や技術者がバビロンに連行されるという激動の時代を生きたのです。エルサレムも町が焼かれ、焼け野原の状態になった姿を見ながら、エレミヤは、神様の厳しさということを目の当たりにしたことでしょう。愛の神様がなぜそんな厳しいことをなさるのかという疑問に感じる方があるかもしれませんが、神様は恵みと憐みに富んだ愛なるお方であり、同時に厳しい義なるお方でもあるのです。
 
B.人間の罪深さの現実
 
 
私たち人間は、自己中心であり、とても罪深い存在です。人が神様に背を向けた時、自己中心となり、ねたみ、怒り、悪意、偽り、不正に支配されるようになったのです。ローマ人への手紙2章から3章にかけて、ユダヤ人の罪、異邦人の罪について論じられています。ローマ人への手紙3章23節にありますように、すべての人が罪を犯したので、神様の栄誉を受けられない状態となりました。

罪深い人間がどうしたら、聖なる神様に近づくことができるのか。罪深い人間は、聖なる神様に近づくことはできません。神様と人間の間に、越えられない大きなギャップがあるのです。どのようにして聖なる神様に近づくことができるかは人類の永遠の課題です。旧約聖書の人々は、レビ記に規定されていますように、動物を殺し、いけにえとして、神様にささげることで、神様に近づくことが許されたのです。その答えを福音の中に見出すことができるのです。罪深い人間が、キリストの十字架のいけにえによって、神様に近づくことができるのです。
 
C.神の義が福音の中に啓示
 
 
福音とは、よく言われますようにすばらしいニュースという意味です。最近は、驚くような事件が起こり、毎日のように、悲しむべき事件が起こっています。幼児虐待、いじめによる自殺、ネット犯罪、あまりに事件が多くて、私たちは慣れっこになり、あまり驚かないようになってしまいそうです。余りにも、暗い嫌なニュースが多いことですが、福音は、すばらしいニュースなのです。「福音」とは、罪人が聖なる神様に近づけるように、神が人になられたということです.つまり、主イエス・キリストの誕生と生涯はすばらしいニュースなのです。
 
U.神の義を得る方法
 
 
第二は、神の義を得る方法についてです。
 
A.信仰による義認
 
 
神様の義を得る方法は、信仰によってということです。1章17節に「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。宗教改革者マルチン・ルターは、「義人は信仰によって生きる」という真理をローマ人への手紙1章17節から再発見し、偉大な宗教改革運動を成し遂げたのです。

ルターは、大学時代、雷に撃たれて死にかけたのです。九死に一生を得た彼は、父親の大反対を押しきって修道院に入ります。ルター自身も厳しい修行や断食をして、神様との平和を追求しました。しかし、心の平安が与えられなかったのです。ルターは自らの修道院での修業の結果、人間の努力によっては神の義には至れないという確信を持つに至ったのです。「信仰による義認」はこの確信と同時与えられたのです。これが「塔の回心」と言われるルターの回心の経験であり「信仰のみ」といわれる意味です。ローマ1章17節を通して、儀式や行ないではなく、信仰によって神様の前に義とされることをルターは、経験したのです。
 
B.信仰義認は、パウロの強調であり、新約聖書全体の教え
 
 
実は、信仰による義認の教えは、パウロの教えであり、新約聖書の中心的な教えなのです。17節の「義人は信仰によって生きる」ということばは、実はハバクク書4章2節からの引用です。使徒パウロは、ローマ人への手紙の4章において、アブラハムも、ダビデも信仰によって義とされたということを論じています。信仰による義認は、聖書全体の中心的な教えなのです。
 
C.信仰義認の結果と幸い
 
 
ローマ人への手紙5章1節には「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と記されています。信仰義認により、罪が赦され、神様との関係が変えられ、神様との平和が与えられます。友人や家族や職場の同僚との人間関係が悪くなり、対立関係になりますと精神的に辛いことです。しかし、人間関係が円満であることはすばらしいことで、心の平安を持つことができます。同じように、信仰によって神様の前に義とされるときに、神様との平和が与えられ、心の平安を持つことができます。

中世の時代、カトリック教会が強大な権力と財を持つにいたり、世俗的な教えが混入し、聖書の基本的な教えから、離れて、免罪符を販売するようなことをしたのです。そのような時代に、ルターは、信仰によって義とされる、救われることを発見し、それを大胆にいのちをかけて伝え続けたのです。
 
V.神の義を伝達する使命
 
 
第三は、神の義を伝達する使命についてです。
 
A.パウロの義認体験
 
 
パウロは、信仰によって神の義を与えられ、平安を与えられたのです。彼は、ユダヤ教のパリサイ派に育ち、クリスチャンを迫害する人物でした。その彼は、ダマスコ途上で、甦られたキリストに会い、「サウロ、サウロ、あなたはなぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼の人生は、全く変えられたのです。
 
B.パウロの福音宣教の使命
 
 
彼は、その後、福音を異邦人に運ぶ宣教者となりました。15節を見るとローマにも是非福音を宣べ伝えたいと願っていました。また、彼はスペインにまで足を伸ばして福音を伝えたいと計画をたてていたのです。1章14節には「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と記されています。彼は、負債を負っていると感じていました。借金があることが大変辛いことですが、負債はどうしても返さなければならないものです。

15節に「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」とあります。福音とは、主イエス・キリストが十字架にかかり、神様との和解の道を開いて下さったということです。パウロは、まだローマに行ったことがありませんでしたが、ローマ帝国の都であるローマに行って、是非福音を伝えたいと願ったのです。
 
C.福音の普遍性
 
 
16節「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを与える神の力です。

福音は、どのような文化にも適応される普遍的な真理です。福音の普遍性、福音の力、深さの故に、使徒パウロは福音をまだあったことのないローマの人々にも是非福音を伝えたいと願ったのです。福音伝道は、クリスチャンがどうしてもしなければならない使命であると使徒パウロは理解していたのです。福音伝道は、キリスト教会とクリスチャンの使命なのです。福音は国籍や人種を問わず、信じるすべての人を救う神の力です。
 
終わりに
 
 
この朝、宗教改革の記念日を覚えて、「信仰による義認の意義」についてみことばを学ばせていただきました。

第一に、神の義が啓示された事実についてです。

第二に、神の義を得る方法についてです。

第三に、神の義を伝達する使命についてです。

もう一度、信仰によって義とされるという福音の素晴らしさを心に深く刻ませていただきましょう。人は、この十字架の福音なくして、平安と希望に満ちた、永遠に価値ある生涯をたどることはできません。信仰によって、神さまとの平和が与えられるというすばらしい福音のために、それぞれの職場、家庭、学校で歩ませて頂こうではありませんか。
お祈りを致します。