礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年12月31日
 
「主の業に対する大いなる感謝」
年末感謝礼拝〜1年を守られて
 
梅田 昇 牧師
 
詩篇 103篇 1-5節
 
 
[中心聖句]
 
  2   わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇 103篇 2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
 
2017年を振り返って
 
 
2017年の元旦礼拝において、へブル人への手紙12章1〜3節から、「イエスに目を注ぐ」という題で、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」というみことばを力強く語られたのです。

この年を振り返りますと、さまざまなことが思い起こされます。結婚式があり、ご葬儀がありました。さくら祭りコンサート、チャペルコンサート、特別集会なども祝福の内に行なわれました。キャンドル・サービス、祝会にも多くの方々が出席され、幸いなクリスマスの行事を守られたことです。この年、思いがけず病気になり、入院をされたり、手術をされた方々もあります。大きな課題や試練の中を通過された方々もあるでしょう。

2017年の歩みを守られ、主に心一杯の感謝と賛美をささげ、この年を締めくくらせて頂きたいと願っています。2017年の最後の礼拝ということで、この年を静かに回顧し、新しい年を展望する朝だと言えるでしょう。
 
詩篇103篇について
 
 
この詩篇103篇は、表題によりますと、ダビデの作です。ダビデはイスラエルの二代目の偉大な王となりましたが、大きな罪を2回犯しました。

一つは、ダビデが、ウリヤの妻バテシバと姦淫の罪を犯したことです。自分の罪を隠蔽するために、バテシバの夫ウリヤを戦争の最前線に送って、間接的に殺害したのです。完全犯罪と思われましたが、神様に対して罪を隠すことはできません。しかし、ナタンの譴責によって、ダビデは悔い改めて神様に立ち返ったのです。詩篇32篇、51篇に神様に罪を赦された喜びを証ししています。

もう一回は、民の数を数えて、神様に罪を犯したのです。人口調査自体が罪ではなく、神様の力に依り頼むのではなくて、自分の力、自分の兵力によって事をなそうとするところが問題点であり、罪だったのです。しかし、ダビデは悔い改めて、恵みに回復されたのです。この詩篇は、そのどちらかが背景になっているのではないかと推測されますが、恐らく前者の背景があるのではないかと考えられます。

詩篇103篇は、旧約聖書における最高の賛美歌であると述べた人もいます。詩篇の記者は、高らかに神様を賛美しているのです。この詩篇103篇には、なぜ、私たちが神様を賛美するのかが記されています。つまり、私たちが神様を賛美できる理由が3つ述べられています。
 
I.主の御名の故に(1節)
 
 
1節に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」と呼びかけられています。神様は偉大なお方で、さまざまなお名前を持っておられます。「主」、ヘブル語で「ヤーウェ」という名前がこの詩篇103篇に20回出てきます。ダビデは「聖なる御名をほめたたえよ」と私たちを招いています。
 
A.全能者
 
 
神様は、全能の神、エルシャダイの神様です。エルは神様、シャダイは全能という意味で、エルシャダイは全能の神となります。神様はアブラハムにおっしゃいました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」。アブラハムを国民の父、祝福の基とすると約束された神様は、その約束を決して忘れなさることはありませんでした。アブラハムと妻サライは、段々と年をとって行きましたが、アブラハムが100歳の時に、一人息子イサクを与えられたのです。約束を成就された神様が「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とアブラハムにおっしゃったのです。
 
B.創造者
 
 
神様は、無から有を生み出すことのできる創造者なるお方です。神様は、物質世界だけでなく、霊的世界もすべて創造されたのです。世界を創造されたお方は、世界を支配し、歴史を導いておられるお方です。格別に、私たち人間は神様の最高傑作品として、神様の像に、神様に似せて創造されたのです。ですから、人間だけが神様に祈ったり、神様を礼拝することができるのです。どんなにかわいいペットでも動物は、神様の像に創造されていないので、神様を礼拝することはできません。
 
C.永遠者
 
 
神様は、永遠のお方です。永遠の定義は、「初めも終わりもない」ということです。私たち人間には、生まれた日と死亡日があります。私たちがフィピンに宣教師として、山岳地帯に赴任した時に、自分の誕生日を知らない子供たちがいることに驚きました。「あなたの誕生日がいつですか」と聞いても、「わからない」と答える子供がいたのです。きちんと役所に出生届を出していない親がいたのです。自分の誕生日を知らなかったとしても、誕生日はあるのです。しかし、神様には誕生日も死亡日もない、永遠のお方です。偉大な永遠の神様は、私たちから遠く離れた場所におられるお方ではなく、私たちの身近におられるお方です。

主キリストの恵みの故に、私たちは神の子とされ、神様を「アバ父、天の神様」と呼べるような幸いな関係に入れられているのです。

私たちは、ただ口先だけで神様をほめたたえるだけではありません。ダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ」と訴えています。魂ということばは気持悪いとおっしゃる人もいますが、魂とは何でしょうか。神様は人間を神のかたちに創造されたと創世記1章に記されています。神のかたちの中心は、人間が人格性を持っていることです。人間は、高度な知識や技術を持つことができます。「めだかの学校は川の中」という曲がありますが、実際に学校に行って教育を受けられるのは人間だけです。また、人間は複雑な感情を持っています。しばしば、人のこころは家族にさえ、わからないものです。人格性の中心は、判断力、決断力、選択力ということです。その人格の一番中心にあるのが、魂であり、魂とは神様を覚え、神様と交わる機能です。ですから、人間だけが、神様を礼拝し、賛美できるのです。神様を礼拝し、神様を賛美できる特権は、人間だけに与えられているのです。ダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ」と訴えていますが、私たちの全人格、知性と感情と魂をもって、すべての能力をもって、主をほめたたえるように勧告しているのです。
 
U.主の恵みの故に(2節)
 
 
主は、恵みに満ちておられるお方です。2節には「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と勧告がなされています。
 
A.良くしてくださるお方(愛のお方)
 
 
2節を見ると、「主の良くしてくださったこと」とあります。恵み深い神様は、いいことをしてくださり、決して悪いことをなさいません。8〜9節「主は憐み深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない」。恵み深い神様は、私たちに良いことをしてくださいます。わたしたちは、「主の良くしてくださったこと」に対して感謝を忘れやすく、不平や文句、つぶやきを言いやすい者です。ダビデは、神様の良くしてくださったことを何一つ忘れないようにと語りました。
 
B.すべてを益としてくださるお方
 
 
パウロはローマ人への手紙8章28節において、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と語りました。子供の不幸を願う親はありません。最近は、子供に対する虐待が社会問題になっています。親として資格や自覚もないような人が親になっているのも大きな問題です。しかし、普通の親は子どもの最善を願いますように、神様は私たちの最善を願い、すべてのことを働かせてくださる恵みに満ちたお方です。

私たちは病気になったり、大きな人生の試練に直面することがあります。不安になったり、恐れたりするのが私たちですが、神様を愛する者のために、神様は困難も弱さもプラスに変えてくださるのです。兄弟に妬まれ、憎まれ、殺されかかり、エジプトの家に売り飛ばされたヨセフでしたが、神様はすべてを益に働かせて、ヨセフをエジプトの総理大臣として、親族を危機から救いだすことを可能にしてくださったのです。私たちは、神様の大きな恵みの故に神様に感謝をささげるのです。
 
V.主の御業の故に(3-5節)
 
 
第三に、神様をほめたたえることのできる4つの業について3〜5節に記されているのです。
 
A.罪の赦し
 
 
3節には「主は、あなたのすべての咎を赦し」と記されています。イスラエルの人々も、しばしば不信仰と偶像礼拝を繰り返し、神様に対して罪を犯しました。もちろん、罪を犯したとき、良心の呵責と罪責感を感じるでしょう。良心の呵責は人間だけが感じるものです。「申し訳ない罪を犯した」という気持をもって神様の前に出るとき、どんな罪をも赦してくださるのです。旧約の時代、イスラエルの民は、動物を殺して、いけにえをささげましたが、新約の時代、主キリストによって、過去に犯したすべての罪が赦され、神様の前に良心の呵責から解放されて、心の平安をもてることは大きな祝福です。
 
B.病気のいやし
 
 
3節に「あなたのすべての病をいやし」とあります。私たちの肉体は、罪の影響を受けていて、疲れたり、病気になったりします。最近は、豊かな食生活と運動不足で、生活習慣病が広がっています。その他、私たちの周りには、ウィルス、病原菌が存在します。厚生物質の普及とともに、新しい細菌も生まれているようです。いろいろな病気の危険に取り囲まれています。神様は、モーセに「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト15:26)とおっしゃいました。

神様は、すべての病いを癒してくださるお方です。蔦田就子宣教師が奉仕をしておられるケニアのテニエック病院に看板が出ています。「We treat, but God heals」つまり、専門的な知識と技術を持っておられるお医者さんや看護婦さんが、診察し、薬を処方し、時には手術をしたり、手当てをしてくださいます。癒してくださるのは神様というのです。神様がいやしてくださるので、病院にも行かず、薬も飲まないというのは、極端な考えです。神様は祈りに応えて、奇跡的ないやしを成してくださることもあれば、薬を用いて病気を治してくださることもあるのです。

神様の深いみこころの故に、病気がすぐに治らない場合もあります。病気と仲良くお付き合いをしていかなければならない場合もあります。ですから、聖書の教える「癒し」を穏健に、健全に理解すべきでありましょう。
 
C.危険からの守り
 
 
4節には「あなたのいのちを穴から贖い」と記され、危険からの守りが約束されています。穴が具体的に何を意味するかわかりませんが、穴の中は良い環境ではありません。穴の中は、暗いし、狭いですし、不自由です。初代教会の時代には、クリスチャンたちがローマ政府の迫害を逃れるために、カタコンベと呼ばれる地下豪を作って、迫害下で耐え忍んだようです。

恐らく、ダビデは穴によって人生に襲い来る危険や困難を意味したのでありましょう。ダビデ自身もサウル王に命を付狙われたり、また、後に自分の息子アブシャロムに殺されそうになったこともありました。

コリント人への手紙第一の10章13節「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」。何度開いても素晴らしいみことばです。愛の神様は、試練とともに、脱出の道、のがれの道を備えてくださるのです。つまり、神様は私たちに耐えられない重荷、担いきれない課題を与えなさることはないのです。
 
D.祝福と若さ(4b,5節)
 
 
4節後半から、5節にかけて、「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」と記されています。神様は、消極的な恵みだけでなく、積極的な祝福を与えてくださいます。「恵みとあわれみとの冠」とあります。ダビデはイスラエルの王様になったのですが、冠は、王様の頭に載せる王冠がイメージされているのでしょう。「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」というすばらしい約束もあります。加齢とともに肉体の衰えは避けられないでしょうが、神様は、新しい力、いのちを提供してくださいます。
 
終わりに(結論)
 
 
2節に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。

神様の御名の故に、神様の恵みの故に、神様の大いなる御業の故に、心からの感謝をささげ、あふれる賛美をもって、この年を締めくくり、新しい年へと向かわせて頂こうではありませんか。
お祈りを致します。