礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2018年1月7日
 
「年の初めから終わりまで」
年頭礼拝の辞〜2018年を迎えて
 
梅田 昇 牧師
 
申命記 11章 8-12節
 
 
[中心聖句]
 
  12   そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。
(申命記 11章 12節)


 
聖書テキスト
 
 
8 あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、9 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。10 なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。11 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。12 そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。
 
新年を迎えて
 
 
2017年は大きな変化の年でした。アメリカではトランプ氏が大統領となり、アメリカ国内と国際情勢に様々な変化がもたらされました。日本でも衆議院総選挙があり、与党が安定多数を獲得し、憲法改正を目指しての論議が始まったと報道されています。

日本国内のキリスト教会は、さまざまな困難に直面し、今後どのように伝道し、教会を運営していくかが大きな課題となっています。教団も牧師の高齢化、若い献身者の減少などの故に、教会の兼牧、合併などが進んでいます。私たちは2018年という未知の世界に踏み入りました。世界に、日本に、個人に何が起こるのか私たちには、わかりませんが、私たちの未来は神様の御手の中にあります。
 
申命記について
 
 
今朝、申命記11章を開きました。エジプトを出発し、シナイ山で律法を与えられ、その後不信仰のために、38年荒野を放浪したイスラエルの人々が、モアブの地に到着したのです。これから、イスラエルの人々は約束の地カナンに進んで行こうとしていたのです。しかし、シナイ山で律法を与えられた人々の多くは、荒野で死に絶え、律法を知らない新しい世代が起こっていました。その新しい世代に、モーセは、律法を繰り返して教える必要を覚えました。申命記には、モーセの4つの説教が記録されていて、申命記はイスラエルの新しい世代に対するモーセの説教集と言ってもよいでしょう。

1.第一の説教―40年の回顧   1〜4章
2.第二の説教―律法      5〜26章
3.第三の説教―契約の更新  27〜30章
4.モーセの送別説教と死   31〜33章

申命記11章は、律法を再述した第二の説教の一部分になります。今朝。申命記11章8〜12節から「年の初めから、年の終わりまで」という題でみことばをお伝えしたいのです。
 
I.神の命令
 
 
第一に、カナンの地に進んでいこうとしているイスラエルの民に対して、モーセは主の命令に従うように勧告したのです。8節「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい」。モーセは、カナンの地に向かおうとしているイスラエルの民に対して、神様のすべての命令を守るように語りました。
 
A.祝福と幸福のための命令
 
 
人に命令されることは余りうれしいことではないかもしれません。しかし、神様の命令はすべて愛から出ているものであり、私たちの祝福と幸福のために与えられています。エジプトを出発したイスラエルの人々は200万人を越えていたと言われますが、荒野を旅することは決して容易ではありませんでした。

「十戒」という映画では、エジプトを出る日、高らかなラッパの音が吹きなさられ、人々が歓喜と希望に燃え、荷物や家畜をまとめて、エジプトを出発したのです。しかし、約束の地に向かう旅は、喜びと楽しみの日だけではありません。次々と、様々な課題や試練も起こりました。シナイ山で、神様はモーセを通して、十戒を含む律法を与えられました。律法は人々の健康と幸せのために与えられたのです。神様の律法も私たち人間の健康と幸福と安全のために与えられているのです。
 
B.旧世代と新世代に対する命令
 
 
イスラエルの人々がエジプトを出発したその日から、40年が経過したのです。途中、様々な出来事が起こりました。食料が乏しくなったり、水がなくなったり、敵が襲ってきたこともありました。困難な荒野を40年間旅をして、カナンの地の目の前のモアブの地に到着したのです。様々な課題を乗り越えて、モアブの地まで導かれたイスラエルの民、古い時代を知らない新しい世代の人々も存在しています。これらの新しいカナンの地に入って行こうとしているイスラエルの民に、もう一度、神様を恐れ、神様の命令を守って進むようにしっかりとモーセは、勧告しているのです。

2018年を迎えた私たち。私たちは迎えた2018年がどんな年であるかわかりません。世界に、日本にまた私たち個人に何が起こるのかわかりません。しかし、神様のことばである聖書は、私たちの祝福と幸福のために記されました。この年も神様のことばを読み、神様の命令に従い続けるならば、神様は更なる祝福と幸いを与えてくださいます。
 
U.神の約束
 
 
第二に、神様の命令に従うときに、祝福が伴います。8-9節「そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる」。
 
A.新しい地に対する不安と恐れ
 
 
モーセは、カデシ・バルネアから、12人の斥候、偵察隊を送りました。モーセに派遣された12人の斥候達の大多数は、否定的な、悲観的な報告をし、その結果、38年の間、荒野を放浪する結果となったのです。10人の斥候たちは「カナンには、巨人がいて、とても太刀打ちができそうもない。カナンの地に行かないほうがいい」と否定的な報告をしたのです。新しい場所、新しいことを経験すことに不安と恐れが伴います。引っ越ししたり、新しい職場になったり、転職したりしますと、不安や恐れがあります。

同じように、イスラエルの民も不安や恐れを感じていたことでしょう。
 
B.敵の存在と攻撃
 
 
ところが、イスラエルの人々は歓迎されるところが、先住民族のカナン人などが戦おうと待ち構えているのです。自分たちの生活している土地に、イスラエルの人々が侵入してくるわけですから、カナン人たちも自分たちの土地と生活を守ろうとして必死です。ですから、新しいカナンの地では、厳しい戦いと困難が予想されます。現実にヨシュア記に見るように、激しい戦いが繰り広げられるのです。

しかし、「イスラエルの民が先祖アブラハムに誓われた地を所有し、そこで、長生きすることができる」とモーセは、神様の約束を述べています。
 
C.天の雨でうるおった新しい地
 
 
モーセは10節以下にこれから進んでいこうとしてカナンの地がどのような場所を述べています。10節「なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった」。エジプトは、乾燥地帯であり、ほとんど雨が降りません。エジプトで豊かな土地は、ナイル川沿いの緑地だけでした。そこは平地でしたので、川の水を汲むために足で水車を回す必要がありました。

しかしカナンの地は、神様が雨を降らせ、神様」の恵みによって収穫をもたらすことができます。これは人間の努力で生きる人生と神様の恵みによって生きる人生とを象徴しているようです。神様から来る恵みに生かされる喜びを味わう人生は幸いです。人間の努力も確かに大切ですが、私たち信仰者は、神様の恵みに生かされ、うるおされて生きることができるのです。神様は、カナン人との戦いに勝利を与え、乳と蜜の流れる約束の地を所有させてくださり、長寿を約束しておられます。所有しようとしている土地がどんな土地であるのかが11節に記されています。

11節をご覧ください。「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている」。イスラエルでは10月から11月にかけて降る秋の雨の時期に、畑を耕し、種を蒔きます。3月から4月に降る春の雨の時期に家畜の餌となる草が茂り、作物は豊かに実を結びます。天の雨で潤っているカナンの地に進もうとしていたのです。私たちの人生に、教会の働きに、さまざまな困難はありますが、神様は天の雨をもって祝福を注いでくださるのです。
 
V.神の愛のまなざし
 
 
第三に、神様のご臨在がイスラエルのために約束されています。

12節「そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。
 
A.神の不変性
 
 
神様が導こうとしておられる地において、神様は年の初めから、年の終わりまで、絶えず目を留めてくださるお方です。神様は不変の、変わることのないお方です。「一年の計は元旦にあり」とありますが、年頭に計画を立てても、しばらくするとそれすら忘れてしまうこともあります。新年のみことばもちゃんと記録しておかないとしばらくすると忘れてしまうかもしれません。しかし、神様の御性質、みこころは決して変わることがありません。へブル人の手紙13章8節に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」とあります。国際情勢も、日本経済も、政治も、私たちの置かれた環境も、私たちの健康も課題も家族の形もすべてが変わっていきます。そのような中で、変わらないご真実をもって、導いてくださるお方を見上げて、新しい年をスタートできるのです。
 
B.神の愛のまなざし
 
 
12節後半に、神様の目が強調されています。「年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。神の目、主の目という表現は旧約聖書に多く、84回使われています。たとえば、詩篇33篇18節に「見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」とあります。イザヤ書43章4節には「わたし(神)の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とあります。

歴代誌第二16章9節「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます」。南ユダ王国三代目のアサ王は、若い頃、神様と心が一つになっていましたので国に平和がありました。しかし、晩年、彼は神様の御心を求めることを止めてしまったのです。すると、ユダに北イスラエルが攻めてきました。その時、アサ王は神様を求めるのではなく、アラムの王の所に金銀を持っていき、同盟を結ぶことを願い、人間的方策に走り、神様を求めることを第一としませんでした。その時、予見者ハナニが神様から遣わされ、語ったのが今読んだ言葉です。全世界をご覧になっている神様と心を一つにするようにハナニは、アサ王に進言しているのです。

神様が目を持っておられるという表現は、大変興味深いことです。目は心の鏡とも言われ、目は心の中をそのまま映し出す鏡のようなものであると言われます。目を見れば、その人の心、人柄がわかると言われます。人間の目は様々でしょう。優しい目、温かい目、つぶらな瞳、輝いた目、きつい目つき、鋭い目つき、暗い目、怖い目つき。目に関する様々な表現があります。視力が悪くなると、目つきが悪くなってしまう人もあるようです。じっと見つめられると、何か自分が全部見透かされていると思えるような眼光鋭い目をしておられる方もあります。

神様はうわべや現状だけをご覧になるのではなく、私たちの内側や可能性にも目を留めてくださるのです。神様の目は、一言でいえば、愛に満ちたまなざしと言えるでしょう。

運動会で、自分の子が徒競走をするとします。親は、遠くから、わが子を見つめます。「ちゃんと良いスタートができるだろうか。途中で、ころびはしないだろうか。ちゃんと最後まで走って、ゴールできるように」と、親の目は、わが子にしっかりと注がれることでしょう。親は暖かいまなざしと期待をもって、子どもの競争を応援するに違いありません。そのように、神様は愛のまなざしをもって、「途中で倒れてしまわないか。最後のゴールまで到達できるように」、私たちをじっと見つめ、導いてくださるのです。
 
C.主キリストのまなざし
 
 
人として地上に来られた主キリストのまなざしはどうだったのでしょうか。マタイの福音書9章35〜36節を開いてみましょう。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」。イエス様は、愛のまなざしをもって群集をご覧になり、群衆を見て、彼らをかわいそうに思われたのです。これは単なる同情心ではなく、愛のまなざしで人々をご覧になったのです。主イエス様の目は、どんな目だったのでしょうか。主イエス様のひとみの色は、何色だったのでしょうか。私たちには、想像するしかありませんが、言えることは、主イエス様の目は、愛に満ちているまなざしであったことでしょう。
 
終わりに(結 論)
 
 
今朝は、申命記11章から、3つのことを語りました。

T.神の命令:神様は愛の故に、私たちの祝福のために命令を与えておられます。

U.神の約束:神様の命令を守るときに、必ず主の祝福が約束されています。

V.神の愛のまなざし:何にも勝って、神様が共にいてください、愛のまなざしをもって導いてくださることほど幸いなことはありません。

ダビデ王は、詩篇23篇4節において、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と告白しています。迎えました2018年、私たちにはどんな問題が起こるか、どんなことが起こるのかわかりません。しかし、神様がともにおられるならば、大丈夫です。

私たちのなすべきことは一体何でしょうか。それは、年の初めから、年の終わりまで、私たちの愛のまなざしを注ぎ、導いてくださる神様をしっかりと見上げて、新しい年をスタートするということです。へブル人への手紙12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」というみことばがあり、2017年元旦礼拝で開かれたことばです。

この年、どんな祝福や困難があるかわかりませんが、私たちを愛のまなざしをもって見つめ、導いてくださる愛と慈しみの神様をしっかりと見上げて、新しい年をスタートするとともに、この1年を歩ませて頂こうではありませんか。
お祈りを致します。