説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年9月28日

「祝福の杯」

蔦田 直毅 牧師

コリント人への第1の手紙10章14ー22節

中心聖句:

 「私達が祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストの体にあずかることではありませんか。

 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つの体です。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」

(16〜17節)

教訓:聖餐式における祝福の杯の意味。


導入

今朝は、聖餐式の日です。今日のメッセージでは、主の聖餐にはべることの意味を捉えさせていただきましょう。

コリント人への手紙は、パウロがギリシャのコリントという都市の教会にあてて送った手紙です。当時のコリントは交易都市として栄えていましたが、社会的には腐敗や不道徳がはびこっていました。そのような都市にも、キリスト教の教会が与えられましたが、残念なことにこの教会は不道徳、分裂・分派、偶像礼拝などの問題を抱えていました。そのような状態を見かねて、パウロは手紙を二度にわたって書き送ったのです。

コリント教会は確かに問題を抱えていましたが、反面新しい人が絶えず入ってくるような生きた教会でもありました。教会が直面する問題には二つがあり、そのひとつは新しい人や事柄が入ってきて、古いものと教会内部でぶつかるというものです。例えば聖書が新しい訳になったり、今日は幸いなことに新しい教会の椅子用のクッションが捧げられましたが、教会の椅子を柔らかくするか、堅くするかで分裂してしまった教会もあるのです。もう一つの問題は、教会が古い状態によどんでいて、新しい変化を拒んでしまうことです。これらの問題は、教会が前に進もうとする時に問題になることであり、ある意味でそんなに深刻な問題ではありません。解決のポイントは、イエス様がどの様なことを望んでおられるのかを、教会員一人一人が良くわきまえさえすればよいことなのです。

これよりもっと深刻な問題が教会に起こることがあります。それは、偶像礼拝が教会に入り込むことです(以前の礼拝「青銅の蛇の破壊」参照)。ある人は偶像礼拝を定義して、心の中で神様とライバル関係にあるものを持ってしまうこと、と言いました。外から入って来たものによって、教会の本質であるキリストへの信仰が変質し、別なものが信仰の中心に据えられてしまったらもう大変です。8章ではパウロがコリント教会のその傾向を見抜き、警鐘を鳴らしています。コリントの教会では、一方ではキリストの祝福の杯を飲み(言い換えると聖餐式を行い)、他方では偶像と交わっているものがいたのです。

今日、聖餐式を執り行いますが、その前に私たちの心を吟味し、こういう偶像礼拝が心にないかどうか確認しましょう。


 今日取り上げさせていただく聖書の箇所を、3つの角度から取り上げさせていただきましょう。

1)祝福の杯を飲む意味

まず聖餐式にはべる意味についてまとめてみましょう。

i) 聖餐式にはべると言うことは、教会の兄弟姉妹とともに、同じ食卓につくという意味があります。聖餐式は元々ユダヤの過ぎ越しの儀式から派生したものです。教会の歴史を見てみますと、教会の集会が、礼拝・聖餐・愛餐によって構成されていたことが分かっています。礼拝の後、それぞれが持ち寄ったものをみんなで食するのが愛餐ですが、これも一つの教会での営みでした。

ii)第二は、聖餐式を通じて私たち個人個人が神様の交わりを持つことです。

iii) 次ぎに、信仰の告白をすると言う意義が挙げられましょう。聖餐式の食卓につくことで、キリストの一部とされることを自覚し、告白するのです。私たちの教会では、何処の教会でも洗礼をされた方は聖餐式に参加できますが、混乱を避けるためにまだの方は控えさていただいております。これはこう言うことを考えた上でのことなのです。

iv)もう一つは、十字架で流されたキリストの血を自分のものとして捉えることで、キリストに連なるものとされることを意識する事です。

v)さらに、神様が招いてくださったテーブルにはべると言う意味があります。これは天国の食卓の前味わいとも言えることです。

vi)そして、イエス様が私たちの罪の故に、犠牲として捧げられた、その痛みを共有すると言う意味があります。

vii) 最後に、神様の民として、その契約を更新させていただくことです。この契約については先週の田代先生のメッセージで取り上げられました(「聖書と私たちの生活」参照)


2)祝福の杯は献身を表明すること

聖別式にはべると言うことは、私たちが神様のものとして一つにされ、神様だけが私たちの心の中心に据えられる、と言う契約を神様と交わしたことになります(17節)。これは神様への献身を表明することなのです。このような契約を結んだ以上は、心の中心に神様以外のもの、例えばお金だったり、地位や名誉であったりそれは人それぞれでしょうが、そういうものがでんと居座っていてはならないのです。

献身とは一体どんなことでしょうか?それは様々なことを神様第一に考えて行うと言うことです。例えば、聖日を守ると言うことや、日常生活での証などがこれに当たるでしょう。つまり、聖餐式のことはその時だけでなく、それ以外の日常でも継続的に守られていることが大切なのです。そのような姿勢でないと、たとえ誰かを教会にお誘いしようとしても、なかなか来てもらえないかも知れません。福音をお知らせすると言うことにおいても、このような姿勢は重要で、不可欠なことなのです。


3)祝福とは何か

聖餐式は過ぎ越しの儀式から出たと申しましたが、これは神様が私たちをその犠牲と信仰の故に過ぎ越し、罪の裁きを免除してくださることを意味しています。キリストは、私たちの罪を除くために十字架にかかり、自らを犠牲とされました。このような恵みに私たちも答えなければなりません。このお返しをお捧げするという内容が、聖餐式には含まれております。

お捧げすると言っても、何をお捧げするのでしょう。これは、先程も述べました献身と関係があります。例えば聖日を守るとき、聖日を神様にお捧げするという気持ちで私たちは臨んでいるでしょうか。もしそうなら、大した理由でないことで欠席したり、礼拝開始時刻に遅刻したり、居眠りをしたりすることはないでしょう。ある方は、不可抗力で遅刻されたとき、お祈りの時間には会堂に入らないようにされています。また冬にはコートを脱いでから、入られます。こう言うことは、神様にお捧げするという気持ちがあってこそのことで、規則でやっていることではないのです。もし神様にお捧げする気持ちが足りなかったと思われる方がおられましたら、早速神様にお返しをするようになりましょう。


 聖餐式は、キリストと一体化し、神様と近くされる恵みの時です。これにより私たちは、神様を自分のものとし、さらにキリストの輝きを放つような生活が出来るようになるのです。聖餐式に臨む前に、この式を通じて私たちがキリストに連なるものとされることを今一度確認し、教会全体が神様にあって一つとされるようになりましょう。


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