礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年1月18日

「立ちはだかる者はいない」

井川 正一郎 牧師

ヨシュア記 1章1〜9節

中心聖句

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」5節

 教訓:前進への挑戦と主の見守り


導入

今日のメッセージは、前回の「ヨルダン川を渡れ」の続編です。冒頭の聖句は、ヨルダン川を渡った後、モーセの後継者であるヨシュアに告げられた神の言葉です。ヨシュアは、その信仰によって神にモーセの後継者として選ばれ、ユダヤの民を約束の地へと導く役割を与えられた人物です。神は、この場面で、1)右へも左へもそれずに、神の道を歩むこと、2)約束の地として与えられているところを、ことごとく民に受け継がせる、という条件を付けつつ、完全な勝利と保護を約束されました。

この「約束の地が与えられる」という約束は、簡単にその地が手に入るというようなものではありません。むしろ、「困難はあるけれども、その困難は必ず取り除かれ、最終的には手に入る」というような意味合いです。事実、約束の地と呼ばれたカナンは、すでに多くの先住民族(例えばペリシテ人=パレスチナ人)がいた地域であり、これらの民族との衝突など、問題課題は山ほど予想されたのです。

このような状況にも関わらず、神がヨシュアに「立ちはだかる者はいない」と宣言されたのには一体どの様な意味があるのかについて、今日、3つの角度から学ばさせていただきたいと思います。


1)敵や問題は山ほどあるが、神が戦ってくださるから、「立ちはだかる者はいない」

 ヨシュアたちがカナンの地に入るとき、どの様な問題が生じたかについて、ヨシュア記に見てみることにしましょう。

 i)ヨルダン川の存在に象徴される、自然界の障壁。これは例えれば、先日のような大雪であったり、大地震などを考えていただければよろしいでしょう。

 ii)マナが降り止み、その代わりにカナンの地で作物を作り始めたことに象徴される、生活の糧の問題。人間はだれでも生きるための糧を得なければならないのです。

 iii)エリコの城に代表される物質的な問題。これは、日用品や必需品などを含む、物質面・経済面の問題を表しています。

 iv)カナンの王との争いに象徴される、人間関係の問題。これには、仕事場、近所、家庭などでの人間関係、友人関係などでの問題が含まれます。

 v)カナンの宗教に表される宗教的課題。これには異教的環境での身の置き方などの問題が含まれます。

 vi)カナン民族との交流・融合に象徴される、現実世界との妥協。現実的なこの世とどの様に渡り合って行くべきか、またどの様に袂を分かつかという、道徳的な問題。

 ざっと見てもこれだけの問題が襲ってくるのが、約束の地への前進だったのです。しかし、これだけの困難があっても、「立ちはだかる者がいない」というのは、このような問題に対して神ご自身が戦いを挑まれると言うの御加護があるからなのです。

 この神による戦いとはどの様なものがあるかといいますと、まず第一に「民は黙ってみていなさい」という神自身の一方的関与のケースと、神と民がともに戦うという民の参加を伴うケースの二つがあります。前者の例としては、第二歴代誌20章12節〜17節の内容が挙げられます。ここでは、神の戦いであるから、しっかり立って動かずに居よ、という指示が神から民へ下されます。これは、神による一方的勝利といえます。次のケースの例としては、詩篇18章29節で語られている内容で、わたしの神によって城壁を乗り越える、というようなものです。ほかにも詩篇60編の最後の言葉のような例もあります。

 神による戦いは、何故行われるのでしょうか?それは、神が私たちの見方になって下さるからです。つまり、「立ちはだかる者は居ない」という言葉の意味は、「神は私達の見方である」ということを指しているのです。信仰を持ってこの意味を捉えましょう。


2)数知れず襲ってくる問題課題の中には、避けて通た方が良いものもある。

 「立ちはだかる者は居ない」という言葉の第2番目の意味としては、「問題から遠く離れなさい」ということが挙げられます。例えば、先ほど挙げた問題の例の中で、宗教的な問題や、対人関係、道徳的問題については、多くの場合その中に身を投じることをせずに、そこから離れておいた方が良いことがあります。「君子危うきに近寄らず。」というような考え方です。これらの問題は、自分から首を突っ込まずに、そこから離れることが第一の課題といって良いでしょう。


3)客観的に見ると問題はないのに、勝手に自分で問題にしているケースもある。

 カナンの地に入ったユダヤの民は、神の指示に反し、そこの土地の住人を全て駆逐することはしませんでした。優秀な民族であったユダ族やベニヤ民族ですら、自分たちが入った土地から全ての住人を追い出すことをしませんでした。これは、彼ら先住民族が戦車などの強力な武器を持っているのではないか、という懸念が彼らの決断をひるませたからです。ところが実際には、そのような問題は存在していませんでした。

 このようなことは、第2列王記7章5節にも記述があります。この時には、攻めあぐむユダヤ人たちが、非常な飢餓状態から抜け出すために、半ばやけくそになって適地に攻め込んだのですが、いざ敵地に入ってみますと誰一人として敵がいなかったのです。

 こういうことは、実は案外私達の日常生活でも、ありがちなことです。例えば、ある人がなんだか自分のことをよく思っていないようだと思い始め、それがとても気になってその人を避けてしまったりするようなことです。ところが、いざ思い切ってその人と話してみると、そのようなわだかまりをその人は一切持っていなかったりするのです。

 このように、人間は一方的に思い煩って困難な問題をこしらえてしまうことがあるのです。神は、そのような取り越し苦労は止めて、私を信じなさいとおっしゃっておられるのです。


以上の3つのポイントは、いろいろな観点から神が我々の一生の見方となってくださることを示しています。このことをよく理解しましょう。


最後に今日のメッセージの実践的側面について、まとめましょう。

1)神の声をよく聴きましょう。

神の示される道・声によく聴き従い、それを忠実に行うことです。

2)恵みに十分に浸り続けましょう。

神の御声がよく聞こえるのは、神の恵みにどっぷりと浸かっているときです。恵みに浸っていないときには、やることなすこと、なんだかギスギスしてしまいます。この恵みとは一体何かというと、一言で言って「恩寵の手段」である公会(礼拝・祈祷会・聖別会・伝道会など)への出席のことです。人間はまず、こういう集会で語られるメッセージをよく聞くことが大切です。これにより、独りよがりで傲慢な聖書の解釈に陥ることがなくなります。「メッセージを聞く」という謙虚な姿勢が、本当の意味での恵みを生むことになるのです。恵みは、自分のいるところに流れてくるのではなく、恵みの流れ込むポイントに自分の身を置くことで初めて受けることができるようになります。

3)勇気を持って前進しましょう。

前進した時のみ神の見守りが与えられるのです。

今日から、一歩一歩前進し、神の見守りを自分のものとさせていただきましょう。神様は、そのようなあなたを一生守ってくださると約束されています。


 written on 980119  (by K. Ohta)