礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
99年2月14日
第1コリント書連講(17)
『愛は徳を建てる』
竿代 照夫 牧師
第1コリント書8章1〜13節
1次に、偶像に捧げた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 (1節) |
アウトライン:現実世界に生きている以上、クリスチャンが世間とどのように対処していくかについて考えることは重要である。対応方法としては、聖書的な知識を援用して論理的に対応するやり方と、愛をもって対応する方法の二つがある。前者は人間を誤解させたり、誤った方向に導く可能性がある。一方後者は他者の品格や徳を高める建設的な対処法である。後者の「建徳的」対応とは何かについて学ぶ。 |
導入
3週間ほど前になりますが、ナザレ会(編者注:いわゆる”おじさん世代”の組会)で行う例会のテーマについてアンケートをとりました。まとめてみますと、24項目に及ぶテーマが寄せられました。これらには、クリスチャンの実社会での生活についての様々な現実的問題(職場でのつきあい、酒宴の席での対応、土日の使い方、職場での証、など)があげられました。
日本はクリスチャンの構成比が極めて少ない国であり、その中で生きていくに当たっては、クリスチャンならではの様々な問題や疑問が生じて参ります。
このような問題に対して、冒頭の箇所でパウロが語ったコリント教会でのメッセージは、ひとつの重要な示唆を与えてくれます。
ここで取り上げられている問題は、「偶像に捧げられた肉を食べるか食べないか」という問題であり、現在の私たちには余りピンとこない内容ではあります。しかし、この問題の本質的な部分は現代にも共通しておりますので、パウロの語った内容の原則部分は今でもその価値を失っておりません。今日はこの内容について見て参りたいと思います。
そもそもどうして当時のコリント教会で「偶像に捧げた肉を食べるか食べないか」と言う問題がそこまで問題視されたのか、その背景を見てみましょう。
当時コリントのあったギリシャでは、ギリシャ神殿で捧げた肉の一部を祭司が取り、さらにその一部を参拝者が取っていました。参拝者はそれを全て自分で食べないで、市場に流して売っていたのです。
したがって、市場で売っている肉には、ごく少量の神殿に捧げられた肉が混在しており、コリントのクリスチャンはそれを見分けることは出来なかったわけです。
初代キリスト教会は、元々ユダヤ人だった人々と、パウロが導いた非ユダヤ系のクリスチャンが混在していました。
ユダヤ系の人にとって「偶像に捧げられた肉を食べない」と言うのは半ば常識のことでしたが(先週のダニエルに関するアップルビー先生のメッセージ参照)、非ユダヤ系のクリスチャンは戒律と元々無関係でしたので、この点は守るべき原則としてことさら強調されていた4条件(使徒の働き15章20節)の一つでもありました。
ユダヤ出身の厳格なクリスチャンにとって、この問題は譲ることができないほど重要な問題でした。これらの人は、少しでも偶像に捧げた肉が入っている可能性があるなら、それを食べないと言う態度を取ったのです。
その一方で、キリスト教は戒律から人間を解放したと言うことを取り上げる人もいました。これらの人は、そんなことは気にせず食べると言う態度をとっていました。
このように、全く異なる対応をとる人が混在していたのがコリント教会だったのです。そして、この問題は、教会内に亀裂をもたらすまでになっていました。
パウロは、このような現実社会へ適応する過程で生じる問題の解決法として、二つの方法があることを示しました。
第一が知識や理屈に基づく対応法であり、第二が愛に基づく対応法です。
1)知識や理屈に基づく対応法は人を高ぶらせる
知識に基づく対応というのは、教義的なこと或いは理屈において正しいことを追求すると言う態度です。
この場面で具体的に言うと、「どのような肉を食べようが、構わない」と言う対応です。この考えの基盤になっているのは、コロサイ書2章14〜16節に書かれている内容です。ここでは、クリスチャンは全ての「戒律」から解放されており、自由な存在であるということです。
つまり、クリスチャンには「〜してはならない」と言う戒律は存在しないのだから、たとえ偶像に捧げた肉が混じる可能性があっても肉を食べて一向に構わないというものです。
これはたしかに真理であり、パウロ自身も別の箇所で戒律主義に陥る危険性を厳しく戒めております。つまり、クリスチャンは「〜しなければならない」と言う不自由な戒律から解放された自由な存在なのです。
また、パウロは8章の4〜6節、また10章の20節において、ギリシャ神殿などの偶像には実体が存在しないことを説いており、これも理屈上「偶像に捧げた肉を食べても構わない理由」として挙げることが出来るものです。
(しかし、その一方で偶像の背後にある悪霊の存在をパウロは否定していない。偶像崇拝に傾くものを導いているのが、悪霊であることは認めている。要は、その悪霊が示す偶像には何ら実体がないことだ。この世の実体は、常に神の側に存在するのである。)
まとめると、理論的には「偶像に捧げた肉」を食べようが、それを意識的に行うのでなければ、我々が汚れることはないのです。
しかしこの方法の問題点は、そうすることでそれを見ている人がキリスト教というものに間違った考えを持ったり、誤解するようなことがあるのです。さらに、そのような理詰めの対応をすることで、ある種の人間関係の高ぶりをもたらすことがあるのです。
理詰めで事を行うことも大切ですが、全て理詰めですと角が立つというのです。
では、理屈以外に対応する方法はあるのでしょうか?それが冒頭聖句の後半に示されている「愛による対応」です。
2)愛による対応は互いの徳を高める
冒頭の箇所では、「愛は徳を高める」と書かれていますが、ここは元々は「愛は建て上げます」と言う表現なのですが、翻訳するときに「徳」ということばが当てはめられました。
「徳」ということばに関しては、「建徳的なものの言い方」をするとか、「あの方は建徳的だ」と言う表現を使うことがあります。前者は、同じ事を言うにも相手を腹立たせたりさせずに、徳を高めるような言い方をする事を指します。
すなわち、「建徳的」対応というのは、相手の品性や人格を高める対応のことを言います。
これに対するのは「破壊的」対応とでも言うべきものでしょうか?これは相手を頭ごなしに言い負かしたり、批判したりするようなことであり、相手の徳を高めるどころか、反発させてかえって躓き(編者注:クリスチャン用語でキリスト的な教えに反する考えや行動をとるようになってしまうこと)を与えてしまうことになります。
こういう対応では、全く状況は改善されないばかりか、かえって事態が悪化してしまいます。よく言われることばに「建て上げは年を要するが、破壊は一瞬である」と言うものがありますが、人間とは実にそのような弱い存在なのです。
例えば、家庭などで安易に教会の批判や、他の信徒に関する批判を口にいたしますと、それを聞いていた子供は一瞬にして「教会とは所詮人間の集まりに過ぎない」「教会はつまらないところなのだな」と感じてしまったりするのです。
このような場合、語っている動機が教会を良くしようとして行ったものだとしても、結果として聞いている人間を躓かせ、逆に他者を傷つかせ、破壊的な方向に導いてしまうことがあるのです。
このような「破壊的」対応をするのではなく、やはり常に他者に対する愛をもって発言したり、対応していくことが大切になります。そのようなことを積み重ねていきますと、やがてお互いの品性や人格が練られ、徳が高まっていくのです。
ポイントは、他者の対して理屈で望むのではなく、愛をもって接し、交わり、お互いに益を与えあうことです(ローマ人への手紙14章7-9節)。自分の益を求めないで、人に益を与えるために生きている、そう考えることで自らの徳も高められ、他者から益を受けることが出来るのです。
クリスチャンとは自分のために生きているのではありません。キリストのために、またキリストが命をかけて救ってくださった人々のために生きるのです。
具体的な方法
では、建徳的対応をするのには具体的にどのようにすればいいのでしょうか?
まずお互い励まし合って、相手の良いと思われる点を言い表すことがあります。人間誰でもはめられると、うれしいものですが、クリスチャンもまず相手の良いところを見つけて、その点を伸ばしていくような対応をすることが大切です。
これに加えて、お互いに感謝していることを、相手に具体的に言い表すことも良いことでしょう。一枚のはがき、一本の電話でもそのようなことを言い表すことが出来、それによって人生が変わる人もいるのです。
また、他者が悪いことをに手を染めているようなら、柔和な心でその相手を諭すことも必要です。しかし、これは大変な知恵と、工夫、また祈りが必要な難しい課題でもあります。
最も大切なことは、これらの具体的対応のポイントが、他者に対する愛(隣人愛)であることです。皆さん一人一人の存在が、誰かの徳の建て上げにつながるようになっていただきたいと思います。またそれは、皆さんご自身の成長にもつながるものです。自分の成長ばかり考えているときは、実は余り成長しないものなのです。
そして、この建徳的対応が教会や社会全体に広まったとき、主はこの社会を変えられていくのです。
「そういうわけでうから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」
(ローマ人への手紙14章19節)
Editied and written by K. Ohta on 990214