礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年6月25日
 
「喜ばしい知らせ」
ローマ書連講(2)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙1章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
 1  神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ・・・
(ローマ1章1節)

 
はじめに
 
 
1.先週から、「ローマ人への手紙」に取り組み始めました。この手紙の概要については講壇の中でもお話しましたが、プリントの形(「ローマ人への手紙」について」)でも残しました。先週来られなかった方は、ロビーの机から自由におとりください。
2.先週は、パウロの自己紹介の部分から、特に、キリストの僕としてのパウロに焦点をあわせました。パウロが、自分に死に、愛をもってキリストに仕える奴隷として自らを描いている意味を考えました。パウロの自己紹介は三つの部分から成り立っているのですが、今日は残りの二つから始めます。
 
A.パウロの自己紹介(1節)
 
 
1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
 
1.キリストの奴隷
 
 
先週お話しましたのは三つのポイントでした。パウロは、自分はキリストの尊い血潮によって買い取られたもの、自分のために自分中心に生きるのではなく主人を喜ばせるために生きるものとなったこと、それは喜んで身をささげる愛の奴隷であること、でした。
 
2.使徒
 
 
1)「キリストの奴隷」という形容詞は「使徒として召された」という具体的な人生目標に焦点付けられます。使徒とは、「遣わされた者」(アポストロス<遣わすという動詞・アポステローから来た言葉)という意味です。キリストによって派遣されたものというところから来ています。その意味では「宣教師」(ミッショナリー=派遣されたもの)という言葉と同じです。パウロに限らず、また、宣教師として派遣されている人々に限らず、私達クリスチャンは皆、一般的な意味で「遣わされたもの」であります。主イエスが私達に「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)と仰っておられるからです。

2)しかし、初代教会において使徒という言葉は、もう少し限定的な意味で使われていました。キリストの復活を目撃し、初代の弟子グループの指導者であり、福音の教えの基礎を築くものという意味でした。使徒1:22〜26に、ペテロが、脱落してしまったユダの後を継いで「使徒職」を継承するものを選ぶときの基準として、こうした要件を述べていることからも明らかです。

3)ところで、パウロは使徒だったでしょうか。そうではない、といって彼を馬鹿にするものもいました。彼は、イエスが地上生涯を送られたときには信者ではなく、しかも十字架の2、3年後には教会迫害者だったからです。しかし、彼に対しては、復活のキリストがじかに会ってくださいました。そして、使徒と呼ばれるには相応しくないものを使徒としてくださった、それは一切神の恵みであると言っています(第一コリント15:7〜10)。その上、他の使徒よりも多く働き、多く迫害を受け、その点では誰にも負けないという自負もありました(第二コリント11:5、23)。その働きも、実は恵みの故でした。パウロが自分を「使徒として召された・・」というとき、神の限りない恵みへの感謝が溢れていました。
 
3.福音のために選び分けられた
 
 
もう一つの形容詞は「福音のために選び分けられ・・」というものです。「選び分けられ」とは、そのために取って置かれた、という意味です。スイカを切り分けるときに、これは後で帰ってくるxxお兄ちゃんのために取って置くんだよ、と言うイメージでお分かりいただけるでしょう。パウロは、福音を述べ伝え、人々にそれをあてがい、それによって教会を形成するという福音の全プロセスに携わるものとして神の召しを頂いた、といっています。そして、それ以外の働きをすべきではない、という限定が込められています。自分が頑固だから一つのことしかしないというのではなく、神がこの仕事のためだけにパウロを取り分けなさった、という強い自覚を示す言葉です。使徒9:15に「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」と記されている通りです。さて、この福音とは何でしょうか。パウロはそれを挿入部分という形で2〜6節までに要約しています。
 
B.福音の要約(2〜6節)
 
 
福音と言う言葉:福音とは文字通りには、「良い知らせ」(ユウアンゲリオン=ユウは「良い」、アンゲリオンは「告知する内容」)のことです。当時、「良い知らせ」とは、「戦勝の知らせ」というテクニカルタームでした。アテネの住民が、マラトンでの戦争の行方を心配していたときに、伝令が走りに走って「わが軍勝てり」と報告した出来事を思い出してください。伝令者は、そのメッセージを述べる前から、手を高く掲げ、顔を輝かせ、声を高く上げて、メッセージを語るのです。聞くほうも、心が沸き立つような嬉しい知らせ、それが福音です。パウロは、自分はキリストが悪の勢力に勝ち給うた、その喜びを知らせる伝令だと言っているのです。私達も、福音を述べ伝えるとき、こんな輝きを持って伝えたいものですね。

さて、パウロは、この福音について、大切な点を述べています。
 
1.主導権は神
 
 
パウロが福音と言うとき、所有名詞に「神の」とか「キリストの」と言う言葉を付け加えるのが常です。例外的に「私の」と言うときがありますが、それは、私が託されたと言う限定的な意味であり、異なる福音と区別するためだけに使われています(ローマ2:16)。さらに、「神の福音」というとき、キリストの復活を通して完成された「救いの勝利宣言」という意味が含まれています。福音と言う言葉が勝利の告知であるということを先ほども申し上げましたように、福音と言うのは、全人類の救いに関する神の勝利宣言なのです。
 
2.昔からの約束に基づく(2節)
 
 
2 この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので・・・
 
この手紙の受け取り手であるローマの信徒たちは、ユダヤ教の背景を持った人々がおり、また、それ以上に多くの人々は、そうした背景をもたない「異邦人」でした。前者の人々は、新しく始まったばかりのキリスト教とは、今まで固く守ってきたユダヤ教の伝統から切り離された「新興宗教」ではないのかという同族からの非難を有形無形に受けて、それをプレッシャーと感じていました。他方、異邦人としてクリスチャンになった人々は、ユダヤ人クリスチャンからは劣ったものと見られているという引け目を感じていました。

パウロはそれらの感情を意識しながら、私が伝えている福音は、自分が発明したものではない、急にどこかから降って湧いたように起きてきた新興宗教のようなものでもない、ユダヤ人が大切な教えとして守り、信じている(旧約)聖書に約束されているものだと、いわばその根拠を明示します。パウロがここで言おうとしているのは、福音に関する預言は旧約聖書の一部分ではなくて、正にその中心なのだということです。

同じ主張は、キリストご自身もなさいました。ヨハネ5:39に、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」と語っておられるとおりです。

福音を示す預言とは、キリストに関して、その誕生、場所、名前、生涯、死、復活が具体的に預言されているというだけではなく、旧約聖書のあらゆる記述が福音への備えであるという意味で言われています。律法は人間のあるべき姿と、それに到達できない罪人である人間を示します。礼拝の諸儀式・生贄は、きよい神に近づくには贖いという道を通して出なければならないことを示します。イスラエルの歴史は、人間の中にある癒し難い罪への傾きを示します。それに加えられた民族的な刑罰を通して、律法では人間を救い得ない内なる改革の必要を示します。その意味では旧約聖書全体が福音を指差しているのです。

私達が福音というとき、薄っぺらな、また、安っぽいものではなく、人類と共に長い長い準備期間を経て与えられた大切で貴重なものだということを覚えたいものです。
 
3.キリストが中心(3、4節)
 
 
3,4 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
 
福音の中心は勿論キリストです。先ほど、戦勝の便りと言いましたが、キリストは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と仰った勝利者です。そのキリストについてパウロは、肉による見方と、霊による(霊的な)見方の二つを示しています。

1)肉によれば(人間的な言い方をすれば):「ダビデの子孫」として生まれました。旧約聖書によれば、キリストは「ダビデの子(子孫)」であるべきでした。マタイの福音書は正に、ダビデの子としての系図から始めています。

キリストがダビデの子として誕生することは旧約聖書に明確に預言されております(歴代誌第一17:14、詩篇132:12、17、エレミヤ23:5、エゼキエル34:24)。新約の時代には、「ダビデの子」は来るべきメシアの別名でした(マルコ10:47、マタイ21:9)。ともかく、イエスがキリストであると言う主張を保つための不可欠な条件だったのです。マタイの福音書は、このローマ人の手紙の暫く後で書かれたと思われますが、イエスがダビデの家系から生まれたことは、パウロの同僚であるルカも記録していますから、当時のクリスチャンの大切な主張の一つであったことが分かります。もし、主イエスの出自が曖昧で、ダビデの子孫という主張が捏造に基づいたものとすれば、当時の人々から反論が多く出されたことでしょう。それらは一つも記録されていません。

2)霊的な言い方をすれば:神の御子です。イエスは100%人間であり、100%神であられました。これが分かりませんと、ダビンチコードなどと言う笑止千万な興味本位の推測から推測を生むのです。教会でもダビンチコードへの反論声明を出すべきという人々がいます。でも、私は本屋で立ち読みしたに過ぎませんが、「ダビンチコードなどxx食らえ」という気持ちです。反論するのも愚かしいと思います。

さて、どうして神の子と言えるのでしょうか。パウロは、「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」と言って、復活こそがキリストの神の子たる証明だと語っているのです。もし主イエスのご生涯が十字架で終わってしまったと仮定しますと、私達は、真面目で犠牲的ではあるが、弱さの中に打ちひしがれただけの教祖に従っているということになります。しかし、感謝しましょう。私達の主は、死を打ち破って甦られた方です。その甦りをもたらした全能の主のみ力を賛美しましょう。そして、その復活こそが、主イエスが神の子であり、勝利者であるとのはっきりした証です。
 
4.普遍的なもの(5節)
 
 
5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
 
福音が旧約聖書に基づいたものであることが十分明らかにされた後、パウロはその福音の普遍性に触れます。旧約聖書の民であるユダヤ人の専売特許ではなく、全世界の人々に無条件で、広く分かち与えられるものとしての福音です。それこそが「良い知らせ」の良い知らせたるゆえんです。信じるものが誰でも、どんな民族のものでも、性別のものでも、社会層のものでも、関わりなく、「ただ信じれば救われる」こんな単純なメッセージは他にあるでしょうか。21世紀の私達には、普遍性という言葉は大変プラスイメージですが、パウロの生きていた1世紀でこの思想がはっきりと打ち出されたと言うことは、正に革命的でした。キリストに関する喜ばしい勝利宣言は、全世界に述べ伝えられるべきでありました。事実、当時知られているあらゆる場所に福音は届けられていきました。
 
C.ローマのクリスチャン達(7節)
 
1.あて先であるローマの信徒たち(7節a)
 
 
7a ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
 
このあて先の記述が、パウロが書いた他の地域宛の手紙と違うことは、先週お話しました。多分、クリスチャンの集まりは未だ組織体として固まっておらず、こちらの家、あちらの家という風に散在していたからなのでしょう。ただここで目を留めたい一つの言葉があります。それは「召された」と言う言葉です。これは、パウロが自分は使徒として「召された」と1節で言っている言葉と共通です。つまり、パウロは使徒として召された、ローマのクリスチャンたちは、聖徒として召されたものだと言っている、「召された」ことが共通です。自分が好きこのんで使徒となった訳ではない、ローマの人々も自分が好んで聖徒となった訳ではない、神がお呼びになったから、神の主導権がそこにあるから、私達は使徒であり、聖徒であるのです。このような意識をしっかりもつことは大切です。

今日、私達が礼拝と言う集いに出席しているのはなぜでしょう。私が出席したいからいるのでしょうか。出席するのが習慣だからでしょうか。そうしないと一週間が祝福されないような気がするから、なのでしょうか。礼拝のプログラムが面白そうだからでしょうか。みんな間違っているとは思いませんが、第一の答えではありません。これらの答えの出所は自分から始まっていますが、礼拝とは自分や自分の都合や自分の気分から始まるものではありません。神から始まります。礼拝すべく神が呼んでおられるから、と言うのが第一の答えです。面白くても面白くなくても、私達を愛する神が呼んでおられるからなのです。そこに私達の信仰生活のスタートがあります。呼び給う神、この神に従って応答しながら、この一週の歩みを全うしたいと思います。
 
2.祝祷(7節b)
 
 
7b 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
 
パウロが祈ったキリストからの恵みと平安を、私達の上に祈ります。