説教ノート(ある信徒の覚え書きより)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
97年10月26日
「その望む港に導かれる」
井川 正一郎 牧師
詩篇107篇23〜32節
中心聖句:
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。
主があらしを静めると、波はないだ。
波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」
(28〜30節)
教訓:神は我々を望む港に導いて下さる。
導入
今日のメッセージは、今年の「湖・海シリーズ」の一つになるものです。
参考:これまでの湖シリーズの礼拝リスト 「さあ、向こう岸へ渡ろう」970216
「上の泉と下の泉」970420
「湖の真中で漕ぎあぐねている」970601
「舟の右側に網をおろしなさい」970713
「失われるのは舟だけ」970810
来月は、これまでを総括して、私たちにとっての「向こう岸」とは何かについて、メッセージを取り次がせていただきたいと思っております。
その前に今日は、神様が私たちを目的の港に向けて、いよいよスピードアップさせて下さる、というメッセージをお伝えしたいと思います。
詩篇107篇は私たちの苦悩を解放して下さる神の恵みに対する賛歌になっている箇所ですが、大きく分けて4つのたとえ話を含んでいます。まず最初は、6節から始まる部分で、「荒野をさまよっている者」が苦悩から解放されるたとえです。次ぎに、10〜13節の「神の言葉に逆らって闇と死の陰に座す者」の解放、さらに17〜18節の「自らの咎(とが)のために悩む者」の解放、そして最後に今日取り上げる28〜30節の「あらしにあって苦しむ者」の解放、となっています。
詩篇107篇は、95篇から始まる神の恵みに対する感謝・賛美の賛歌の一つです。95〜101篇では、神の御業の偉大さについての賛歌であり、103〜107篇ではより具体的な神の恵みについて賛美がなされています。103篇では人のたましいに関する御業、104篇では自然界における御業、105篇ではイスラエルの歴史に関する御業、106篇ではイスラエルの犯した罪の歴史に対する神の御業、そして107篇ではバビロンの補囚からの解放の御業について書かれています。
これらの賛歌は、神がその恵みによって我々を苦悩から解放して下さることに対して賛美をしているものです。
今日は、中心となる聖句の部分から、我々一人一人を望む港へ導かれる神の恵みについて、メッセージをお伝えしたいと思います。
冒頭の箇所の嵐はどんなものだったのでしょうか?26節には「天に上り、深みに下る」とありますが、これは嵐の海の波のすごさを表現したものです。このような激しい嵐の中で、「彼らの魂は溶け去った」とあります。つまり、激しい嵐に対する恐怖のあまり、全く勇気や分別を失った状態になってしまったのです。このような状況下では、もはや人間の打つ手はなくなってしまったという事が出来るでしょう。
しかし神様はこの者たちをその嵐から救われ、最後には目的の港に導かれたとあります。
今日、望む港に導かれる神の恵みの働きに必要な条件について2つの点からまとめてみたいと思います。
1)祈ること。
第一の条件は、祈ることです。28節では、嵐の苦しみの中で船乗りたちが主に向かって叫んだと書いてあります。このような苦しみの中でする真剣な祈りを、神はお聞きになり、そして恵みを持って答えられます。
苦しいときの神頼みという事を日本人はよく言いますが、現実問題として、順調なときに真剣な祈りをすることは、多くの人にとって難しいことのように思います。私は、こう言うのも何ですが、苦しいときにでもいいから本当に真剣に祈って見ることをお勧めします。そして、そこから日常的のそのような真剣な姿勢で祈りをすることを学んでいただきたいと思っています。
お祈りは何を私たちにもたらすのでしょう。次ぎに10個のポイントにまとめてみました。
a)神の存在を認めさせる。
b)人間を謙遜にする。
c)自己中心の心を砕く。
d)悔い改めに導く。
e)神への絶対的信頼をもたらす。
f)神の御旨(みむね)に自らを合わせようと言う姿勢が出てくる。
g)霊的な力が生み出される。
h)「私」が変わる。
i)神を動かす力が与えられる。
k)祈りが毎日必要であることが分かる。
祈りに関する本には、E.M.バーンズの「祈りによる力」や佐藤がぶんによる祈祷に関する書物などの良書があります。佐藤氏の本には、祈りに関して3つのことに心を留めるように書いてありますので、ここで少しご紹介しましょう。
i)祈りの重要性を認識する。
神への祈りの重要性を認識している人は、まず何をさておいても祈ります。例えば何か重要な仕事をする前には、必ず祈りから始めるのです。
ii)不信仰を除く。
これは、神への祈りが答えられないなどと考えながら祈るな、ということです。祈るときは、「どうせ」と思わず、神を信じて祈ることが大切です。
iii)祈りのための良い方法を取り入れる。
これには、意志を克服すること、祈りのための環境を整備すること、祈りの習慣(定期的な時間に祈るなど)を身につけること、祈りによって勝利を得て祈りの力に興味を持ちながら祈ること、祈りによって得られた成果を数え上げること、などがあると書かれています。
神へ祈りをささげるという事は、自分のチャンネルを神の周波数に合わせるという事です。これによって、神と私たちの間に太いパイプがつながり、そこを恵みが大挙して押し寄せるのです。
2)波がなぐこと。
1番目のポイントは、私たちの側から見た条件ですが、この2番目のポイントは神の側からのポイントであるといえます。嵐にあった船乗りたちが、目的の港につくことが出来たのは、嵐がやんで凪(なぎ)が来たからです。
気候上の凪は夕方や朝のほんの短い時間だけ起きるものですが、人生の凪も短いと考える人がいます。しかしあえて今日私は、神の観点から見たとき、人生のほとんどは実は凪であると言いたいのです。
士師記の時代は、不信仰−苦難−民の叫び−神の助け(士師の派遣)−回復と平和というサイクルが何度となく繰り返された時代です。この時代は一般にイスラエル民族にとって苦難の連続の時期と捉えられています。しかし、よく聖書を見てみますと、実際のイスラエル民族が苦しんでいたのは、士師記の時代450年のうち100年だけだったようです。つまり残りの350年は平和だったわけです。不遇の時間が長く感じられるのは、その時のイスラエルの民の不信仰が、それ程までにひどかったからに他なりません。
このように神の観点から見てみますと、我々が何でこうなるのと思うような試練の時も、一時のことに過ぎないのです。
つまり神は人生の大部分我々を堅く守っておられ、平和を与えられているのです。我々は苦難のときばかりに目を向けますが、実はその時は人生の一時に与えられた、信仰の成長ためのの瞬間なのです。
こういう事を知りますと、嵐にあったとしましても、決してパニックに陥らない心ができあがります。そしてそのような中においても、冷静に祈り、最後に必ず目的地に着くことが許されるのです。凪は我々にとって、一瞬ではなく、むしろ嵐が一瞬であることを知りましょう。
最後に今週の生活への適用をまとめてみましょう。
1)まず望む港を目指して進みましょう。これは自分の思いと言うより、神の望む港に向かって、前に進むと言うことです。
2)次ぎに、祈りましょう。しかも毎日継続的にです。これにより我々に謙虚さが生まれます。
3)すべて神の恵みによって守られているということを知り、神に感謝の賛美をしましょう。
これらの姿勢を取るものに、神はいつも「凪」を備えられています。
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